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1247年(宝治元年)6月4日 宝治合戦により三浦一族が滅亡
相模国の豪族
三浦氏は相模国(さがみのくに 神奈川県の大部分)を本拠とする豪族です。
源氏の家来であり、源頼朝が平氏に対して挙兵した時には、一族と共に挙兵し味方します。
当主の三浦義澄は頼朝の宿老となり、頼朝が幕府を開くと、一族の和田義盛も侍所別当(長官)となっています。
頼朝の死後には、十三人の合議制のメンバーとなり、幕府内で大きな権力を持ちました。
義澄の子・義村は和田合戦で和田義盛を裏切って北条氏に味方し、和田氏滅亡に貢献しています。
源氏滅亡~宮騒動が起こるまで
1219年(建保7年)第3代将軍・源実朝が暗殺され源氏が滅びると、幕府は皇族を将軍に迎えようとしますが、後鳥羽上皇に拒否されます。
そこで、将軍に迎えられたのが、藤原頼経(九条頼経)でした。
ただ彼は、両親ともに源頼朝の妹の孫であり、源氏との血縁はあったようです。
しかし、幼かったこともあり傀儡であり、将軍としての実権はありませんでした。
頼経が成長してくると、北条氏を嫌い、彼の元に集まってくる人が増えてきます。
また、北条氏の中でも流派が分かれてきており、第3代執権・北条泰時の弟・朝時は、兄が庶子であり、自分が正室の子であったため朝時の子孫らは得宗家(とくそうけ 北条家の惣領)に対して反抗的でした。
泰時の死後、第4代執権となった孫の経時は、これに危険を感じ、1244年(寛元2年)頼経を将軍の座からおろし、頼経の子・頼嗣を5代将軍として擁立しました。
しかし、経時は重病となって、弟の時頼に執権職を譲った直後に亡くなってしまいます。
これを好機と見た朝時の子・光時は、頼経や頼経側近の反執権派御家人らと連携し、時頼打倒を計画します。
しかし、時頼方に機先を制され、光時は弟と共に降伏。
この後、時頼方は時頼の私邸に集まり、頼経側近についての対応を協議しますが、力を持っていた三浦泰村(義村の子)が去就を曖昧にしており、速やかな処分が出来ませんでした。
泰村の弟・家村が時頼の私邸を訪れ、恭順を誓ったことで時頼方の勝利が確定します。
そして、頼経側近は処分され、頼経は鎌倉から追放されてしまいます。
燻る火種
頼経は追放されましたが、時頼にとっては安心と言うわけではありませんでした。
なぜなら、泰村は自身の権力を強化するために、頼経に近づいていましたし、弟の光村などは反北条氏の強硬派で時頼打倒の計画にも加わっていました。
三浦氏は北条氏の外戚であり北条氏に対抗できる力を持っていた為、三浦氏との対決を避けたい時頼は光村の罪を不問とし、光村に頼経の京都護送を命じています。
1246年(寛元4年)7月、光村は頼経護送の際、頼経の鎌倉復帰を誓っており、これが時頼に報告され危険視されていました。
10月になり、頼経の父の九条道家が関東申次職を罷免されると、将軍復権派は後ろ盾を失い実力行使しか手はなく、光村は鎌倉に戻ると反北条の勢力を集結すべく動きます。
一方、時頼は泰村に対し、六波羅探題であった北条重時の鎌倉帰還を打診します。
これは宿老の重時を帰還させることにより、三浦氏を執権外戚の地位から穏便に引退させようとしたものですが、泰村によって拒否されました。
三浦氏は北条氏に次ぐ地位にあり、これに不満を持っていたのが安達氏です。
安達氏は元々、頼朝の側近の家柄であり、大豪族の三浦氏とは差がありましたが、北条氏の外戚になることによって地位を高めてきました。
1247年(宝治元年)になると鎌倉で北条氏と三浦氏の対立が深まり、不穏な噂が流れます。
こういったなか、打倒三浦氏の強硬派である幕府宿老の安達景盛が、25年ぶりに高野山を下って鎌倉へ戻ってきます。
景盛は外孫である時頼に三浦氏攻撃を説き、また三浦氏の下風に甘んじる子の義景や孫の泰盛を激しく叱責します。
三浦氏と和解・妥協を模索する時頼らを尻目に、景盛が主導となり安達氏による三浦氏挑発が続きます。
5月6日、時頼は泰村の次男駒石丸を養子に迎え、5月13日には将軍頼嗣の正室となっていた檜皮姫が病没した為、時頼は服喪のために泰村邸を訪問・滞在し、三浦氏への敵意が無い事を示すことで合戦を回避すべく務めようとします。
一方の泰村も合戦の回避を望みますが、強硬派の光村により和平がはねつけられました。
5月27日、未だ泰村邸に逗留していた時頼は、館内で合戦の準備を始める音を聞いて自邸に戻ります。
翌日、時頼の元に光村が安房(あわのくに 千葉県南部)や上総(かずさのくに 千葉県中部)の所領から武具を集めているという報告が入ります。
そのため、6月1日に時頼は佐々木氏信を泰盛邸に派遣します。
泰村は「羨望や讒言により噂を流され迷惑している」と答えますが、氏信は帰還すると、「三浦館内に武具が揃えられていた」と報告します。
鎌倉に軍勢が終結し戒厳体勢となるなか、6月5日に時頼は腹心・平盛綱を泰盛邸に派遣し、和議を成立させました。
宝治合戦
この和議により和平となるかに見えましたが、これを知った安達景盛は三浦氏と雌雄を決するべく、泰盛を先陣として一族に出陣を命じます。
平盛綱が和議をまとめ、三浦の館に赴くのを出し抜き、武装した安達氏の軍勢が泰村の館を急襲しました。
奇襲を受けた泰村は、館に立て籠もり迎撃の構えをとります。
合戦が始まると御家人達が両陣営に駆けつけ混乱を極めました。
三浦方には妹婿の毛利季光、宇都宮時綱らの縁戚と将軍派の御家人らが集まります。
合戦に引きずり込まれる形となった時頼は、北条実時に将軍御所の守備を命じ、弟の北条時定を大将軍に任命して三浦泰村討伐を命じます。
三浦舘には鎌倉にいた三浦一族、前将軍頼経を慕う御家人達が集まり、三浦半島からも一族が駆けつけました。
三浦光村は80騎を率い永福寺に籠り、鎌倉と得宗家の本拠地を分断します。
三浦館は明け方から攻撃を受けますが、昼になっても北条方は攻めあぐねます。
しかし風向きが変わったところで周辺の舘に火がかけられ、燻り出された泰村達は舘を出て源頼朝の墓のある法華堂に向かいます。
光村は泰村に使者を派遣して要害の地である永福寺での合流を勧めますが、泰村はすでに戦う意志はなく、「兄弟一緒に亡き頼朝公の御影の前で死ぬべし」として光村に法華堂へ来るように命じます。
光村はやむなく敵陣を強行突破して法華堂に向かい、法華堂には三浦一族とその縁戚、将軍派であった御家人達500余名が集まっていました。
法華堂の門外で郎党達が防戦している間、出家して西阿と称していた毛利季光が念仏を唱え、源頼朝の御影の前で一同はしばし懐旧の談を交わします。
その後三浦一族と与党500余名はそれぞれに自刃して果てました。
また、上総にいた泰村の妹婿の千葉秀胤も追討軍に敗れ、一族と自害しました。
戦後
三浦氏が滅亡したことにより、将軍側近勢力は一掃され、北条得宗家による専制執権体制が確立します。
三浦一族ははぼ全滅しましたが、北条泰時の前妻だった矢部禅尼の再婚後の子供達だけは生き残り、三浦氏を名乗り再興しています。
また、泰村の妹婿だったため、巻き込まれた毛利季光の一族も越後(えちごのくに 新潟県)にいた四男の経光は生き残り、安芸毛利氏として子孫に毛利元就が出ています。
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スマイリー
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