こんにちは。 スマイリーです。
訪問いただき、ありがとうございます。
ランキングに参加しています。ポチっとご協力をお願いします。
↓ ↓ ↓
日本史ランキング
今日は何の日?
1582年(天正10年)6月13日 山崎の合戦。明智光秀が羽柴秀吉に敗れる
今年は大河ドラマで主役が明智光秀なので、やっぱり彼の記事を書かないと。
明智光秀とは?
明智光秀という人物は本当に謎が多いです。
誕生日は不詳で、父親も明智光綱とありますが諸説ありますし、出生地も美濃国(みののくに 岐阜県南部)だったり、近江国(おうみのくに 滋賀県)だったりします。
織田信長を討った本能寺の変でも、怨恨説や野望説があり、なんで討ったのかもはっきりはしていません。
しかし、織田家の重臣たちが信長の元を離れていたこともあって、謀反を起こしやすかったのは事実です。
本能寺の変当時の信長と主な諸将の動向
織田信長 100人程度の小姓と在京
織田信忠(信長の嫡男) 数百の家臣と在京
羽柴秀吉 備中国(びっちゅうのくに 岡山県西部)で毛利氏と対峙中
柴田勝家 越中国(えっちゅうのくに 富山県)で上杉氏と対峙中
滝川一益 上野国(こうずけのくに 群馬県)に在国
神戸信孝(信長の三男)、丹羽長秀 摂津国(せっつのくに 大阪府北中部の大半、兵庫県南東部)で長宗我部氏征伐の準備中に、徳川家康の接待役を信長に命令され大坂へ移動中。
徳川家康 少数の供と堺の見物中。
この隙をついて光秀は信長を討ちます。
光秀の誤算
光秀は信長を討つのには成功しましたが、誤算も生じました。
1.信長、信忠親子の首をとれなかった。
つまり、証拠がないという事ですね。あの怖い信長が本当に死んだか信じられず、味方にならなかった武将もでてこの後の合戦にも影響しています。
特に細川藤孝・忠興親子と筒井順慶は光秀と縁戚関係にあり、光秀に期待されていました。
(順慶は光秀と兄弟と言う説もあります。)
しかし、細川家は味方せず中立を保ち、筒井家も最初は兵を出してましたが、途中から羽柴秀吉に内通しています。
2.本能寺の変の連絡が、毛利氏より先に秀吉に伝わった。
秀吉は、このことが毛利氏に漏れないように警戒し、当時落城寸前だった備中高松城主・清水宗治を切腹に追い込むことで、毛利氏とは和解し、戦場から戻ることが出来ました。
なんとたった6日間で兵庫県の尼崎まで戻っています。(予想以上に早かった)
光秀は、柴田勝家を警戒していたせいか秀吉を重視していませんでした。
その為、摂津国の武将(中川清秀・高山右近ら)を味方につけられず、秀吉の約半分の兵で秀吉と戦うこととなってしまいました。
3.神戸信孝が秀吉側に味方した
神戸信孝・丹羽長秀の兵は、本能寺の変を聞き、逃げ去った者が多く出たようでしたが、秀吉に合流することにより秀吉軍が増大しました。
信孝は信長の子ですから、名目上でも総大将にかつがれることにより敵討ちに士気が上がるでしょうが、光秀側は主殺しという汚名を着せられるので士気もそれ程ではなかったでしょう。
巻き込まれた不運な武将 津田信澄
この山崎の合戦が始まる前に討たれた武将がいます。
それが津田信澄
信長が若い頃、弟の織田信行を謀殺しましたが、彼はその嫡男です。(つまり、信長の甥)
信長には信頼されていて、一族の序列は5番目という高さでした。
しかし、光秀の娘を嫁としており、光秀側に味方するという噂も流れていたようです。
この為、信孝・長秀に攻められ、討ち死にしてしまいます。
(信孝としては、邪魔な従兄弟をどさくさに紛れて殺した感がありますが。)
山崎の合戦へ
6月10日に秀吉接近の報告を聞いた光秀は、急いで淀城・勝龍寺城の修築に取り掛かりますが、準備不足で秀吉軍と戦うこととなります。(羽柴軍2~4万に対し明智軍1~1.6万)
決戦は摂津国と山城国(やましろのくに 京都府南部)の境、山崎(京都府長岡京市乙訓郡大山崎町)で行われました。
羽柴、明智両軍は12日に円明寺川を挟んで対峙します。
羽柴軍は摂津衆の中川清秀・高山右近らが山崎を占拠し、最前線に着陣すると、池田恒興が右翼に、黒田孝高(官兵衛)・羽柴秀長(秀吉の弟)らが天王山の山すそに沿って布陣し、その後方の宝積寺に秀吉は本陣を置きます。
これに対し、光秀軍は御坊塚に光秀の本陣を置き、その前に斎藤利三・阿閉 貞征・河内衆・旧幕府衆らが東西に渡り防衛線を張るように布陣し、迎撃体制ととります。
当時の山崎は湖沼が広がり、大軍が通れるのは天王山と沼の間に限られていた為、明智軍がその出口を塞ぐ形で布陣しています。
初めは局地的な戦闘でしたが、13日の午後4時頃、天王寺の山裾を横切り、高山隊の横に陣取ろうとしていた中川隊に、斎藤隊の右側に布陣していた伊勢貞興隊が襲い掛かります。
これに呼応し斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し、戦端が開かれました。
斎藤・伊勢隊の攻撃を受けた中川・高山隊は窮地に陥りますが、羽柴本陣から堀秀政が来援し持ちこたえます。
また、天王山麓に布陣していた黒田・秀長隊らは、前方に展開し、中川・高山隊の側面をつこうと進撃してきた松田政近・並河易家らと交戦します。
淀川沿いを北上してきた羽柴勢の池田恒興・元助父子と加藤光泰が、密かに円成寺川を渡河し、津田信春隊を奇襲すると戦況が大きく動きました。
信春隊は三方から攻められ、混乱に陥ります。
また、信孝・長秀隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面をつく形となります。
これにより、苦戦していた中川・高山隊も斎藤・伊勢隊を押し返し、動揺した光秀軍は総崩れとなりました。
壊滅した光秀軍は、後方の勝龍寺城に退却を余儀なくされます。
主力の斎藤隊は戦線離脱し、松田政近や殿を引き受けた伊勢貞興らが討ち死にするなど、光秀軍は大打撃を受ける大敗でした。
三日天下
一方の羽柴軍も前線部隊は消耗が激しく、日没が迫ったことで追撃も散発的なものとなります。
しかし、光秀軍はさらに士気が下がり、勝竜寺城に大軍が収容できなかった為、兵の逃亡が相次ぎ700程に減りました。
そこで光秀は本拠地の坂本城を目指して、密かに勝竜寺城を脱出します。
途中の小栗栖の藪で土民の落ち武者狩りにあった光秀は、竹やりで刺され絶命したとも家臣に介錯され自刃したとも言われています。
こうして光秀の3日(実際は11日間)天下は終わりました。
光秀の首は翌日に羽柴軍に送られ、後に処刑された斎藤利三と共に本能寺に晒されました。
山崎の天王山
|
スマイリー
最新記事 by スマイリー (全て見る)
- 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のタイトルについて考える - 2022年2月13日
- 浅井氏3代の居城・小谷城、織田信長の攻撃の前に落城する - 2021年9月1日
- 明治新政府に抵抗した会津藩の少年たちの悲劇~白虎隊士中二番隊~ - 2021年8月24日
コメント
スマイリーさん、この部分お好きなのでは?とても臨場感あふれる筆致で描かれていて、一気に読んでしまいました。光秀は謎だらけで、想像(創造)が膨らみますよね(^_-)
Sakoさんこんにちは
いつもありがとうございます。
Sakoさん鋭いですね。確かにとても好きなんです。
元々好きな時代でもありますから。