下剋上の雄、美濃のマムシの無残な最期 ~斎藤道三~

今日は何の日?
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今日は何の日?

1556年4月20日 斎藤道三、子の義龍との長良川の戦いで敗死する。

斎藤道三とは?

斎藤道三(さいとう どうさん)/利政(としまさ)と言えば、戦国時代に下剋上(げこくじょう)で美濃国(みののくに 岐阜県南部)の大名まで成りあがった人物として、北条早雲(ほうじょう そううん)と共に有名ですね。

 

そのため美濃のマムシとも言われてます。

道三は、主人を変えるごとに名前が変わってます。

今までは、道三は一代で大名に登りつめた説が通説になっていました。

しかし、近年は道三の父と二代で登りつめた説が有力になってきています。

その根拠となるのが、1960年に発見された永禄3年(1560年)7月付の「六角承禎書写」というもので、近江国(おうみのくに 滋賀県)の大名、六角義賢(ろっかく よしかた)/承禎(じょうてい)が家臣にあてた文書で、斎藤氏について次の内容が書かれていました。

斎藤義龍(さいとう よしたつ)の祖父・新左衛門尉は京都の妙覚寺の僧で、西村を名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。

新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。

義龍の父・左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。

道三は義龍と義絶し、義龍は父の首を取った。

となっているそうです。

それによると、法蓮坊(ほうれんぼう)、松波庄五郎(まつなみ しょうごろう)、西村勘九郎正利(にしむら かんくろうまさとし)長井新左衛門尉(ながい しんざえもんのじょう)は父の名で、長井規秀(ながい のりひで)、斎藤利政が道三の名になりますね。

道三は事実上美濃の国守までなりましたが、守護ではありません。

守護は土岐氏が務めていました。

しかしその頃の美濃では家督相続が勃発していました。どこの国でも起こるパターンですね。

土岐氏は長男の政頼(まさより)と次男の頼芸(よりあき)との間でどちらが家督を継ぐか争っておりましたが、頼芸の信頼を得た道三は大永7年(1527年)8月家督相続に敗れた政頼を革手城に急襲して朝倉氏の越前国(えちぜんのくに 福井県)へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献します。

天文4年(1535年)になると、反撃の機をうかがっていた政頼の子・義純(よしずみ)が頼芸・道三と激突し、そこに朝倉氏、六角氏が加担したことにより美濃全体に戦火が広がります。

天文7年(1538年)に美濃の守護代・斎藤利良(さいとう としなが)が病死すると、その名跡を継ぎ、斎藤新九郎利政と名乗り、天文8年(1539年)には居城の稲葉山城を改築します。

美濃の国主へ

頼芸の信頼のあった道三ですが、天文10年(1541年)に頼芸の弟・頼満(よりみつ)の毒殺が契機になり、頼芸との対立が始まります。

一時は道三が窮地に陥りますが、天文11年(1542年)になると、頼芸の居城・大桑城を攻め、頼芸を尾張国(おわりのくに 愛知県西部)へと追放し事実上の美濃国主となります。

(この時に作られた落首があります。「主をきり 婿を殺すは身のおはり 昔はおさだ今は山城」

意味は、「主君や婿を殺すような荒業は身の破滅を招く。昔で言うと長田忠致(おさだ ただむね)、今で言うと美濃の斎藤利政だろう」ということです。

長田忠致は尾張の人で、主人である源義朝(みなもとの よしとも)を謀殺した人。斎藤道三は山城守利政と言っていました。

しかもこの落首を作った人、みのおはりと美濃尾張をかけていて、言葉の使い方が面白いですね。)

尾張で織田信秀(おだ のぶひで)の後援を得た頼芸は、今度は越前で朝倉孝景(あさくら たかかげ)の庇護を受けていた義純と手を結び、朝倉氏と織田氏の援助を受け美濃に侵攻します。

その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、頼純は革手城に復帰しました。

天文16年(1547年)9月、織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けますが、道三は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込みます。(加納口の戦い/井ノ口の戦い)

同年11月には義純も死去します。(これには道三による毒殺説もあります。しかも、義純の妻は道三の娘・濃姫/帰蝶なのにです。)

この状況下で道三は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に帰蝶を信秀の嫡子信長(のぶなが)に嫁がせます。

(信秀が死に信長が継ぐと、道三は聖徳寺で会見しますが、「うつけ者」と評されていた信長が、多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、信長を評価することとなります。

このシーンは有名で、NHKの大河ドラマ麒麟がくるでも放送されてましたね。)

この和睦によって道三は織田家の後援を得て反対勢力を滅ぼし、天文21年(1552年)には頼芸を再び尾張に追放し美濃を平定します。

道三の最期

こうして何とか美濃を平定した道三でしたが、天文23年(1554年)には息子の義龍に家督を譲り、常在寺で出家し鷺山城に隠居します。

                  常在寺

これは自発的でなく、家臣により強制的に隠居させられたようです。

しかし道三は義龍を無能と評価しており、弟の孫四郎(まごしろう)喜平次(きへいじ)を偏愛し、義龍の廃嫡を考えたとされています。

道三と義龍の仲は悪化し、弘治元年(1555年)に弟たちをおびき出し謀殺し、道三に対して挙兵します。

これを知った道三は仰天し大桑城へ逃走します。

道三の今までの経緯から、道三へ味方しようとする者は少なく、弘治2年(1556年)4月、義龍軍と長良川で戦いますが、義龍軍17,500に対し、道三軍は2,500と圧倒的に不利でした。

信長が援軍に駆けつけますが、間に合わず戦死します。享年63

戦死する直前には、美濃を信長に譲り渡すという遺言書が信長に渡され、京都の妙覚寺、大阪城天守閣に書状が現存しています。

また、無能と評していた義龍の采配を見て、その評価を改め後悔したとのことです。

道三は首を討たれた際、鼻をそがれるなど悲惨な最期でした。

しかし、義龍についた旧臣によって道三塚に手厚く葬られています。

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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コメント

  1. セフィママ より:

    スマイリーさん、司馬遼太郎の国盗物語に出てくる道三、マンガの本宮ひろしの道三読むと、道三ファンになります(^^)
    スマイリーさんの道三も良かったです!

    • スマイリー より:

      セフィママさん ありがとうございます。
      セフィママさんの本好きにはいつも驚かされます。
      一体どれだけの本を読まれてるのですか?

  2. Sako Kura より:

    スマイリーさん、斎藤道三は大河でも、色々な形で出現しますが、スマイリーさんのはとてもわかりやすかったです。

    • スマイリー より:

      Sakoさん
      読んでいただきありがとうございます。コメントをいただき、益々書いていきたい気持ちが強まりました。

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