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今日は何の日?
1575年(天正3年)5月21日 長篠の合戦が行われた日です。
長篠の合戦と言えば、武田勝頼(たけだ かつより)が、三河国(みかわのくに 愛知県東部)の長篠で織田信長(おだ のぶなが)と徳川家康(とくがわ いえやす)連合軍と戦って大敗した戦いです。長篠設楽原の戦いとも言われます。
きっかけは奥平氏の離反
奥平氏というのは三河国の有力国人です。
今川氏の勢力が強かった頃は、今川氏に属していました。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元(いまがわ よしもと)が織田信長に敗れ戦死すると、その後は徳川家康の参加に入ってました。
しかし、その後武田信玄(たけだ しんげん 勝頼の父)の三河侵攻が始まると、武田氏に属しています。
1573年(元亀4年)4月に信玄が亡くなると、その死は秘匿されていましたが、奥平氏では疑っていたようです。
奥平氏を取り込みたい家康は、自身の養女を奥平信昌(おくだいら のぶまさ)の嫁にする事で再び傘下に引き入れました。
そして家康は、武田氏から奪取した長篠城に奥平氏を配しました。
この裏切りに、武田勝頼は人質としてとっていた信昌の前妻16歳(この機に離縁させられていた)と信昌の弟13歳らを処刑しています。
長篠城包囲
奥平氏の離反から2年後の1575年(天正3年)4月に勝頼は、大軍をもって三河国へ侵攻し、5月には長篠城を包囲しました。
武田氏の1万5千に対し、長篠城の守兵は僅か500でしたが、200丁の鉄砲と、城が谷川に囲まれた地形のお陰でなんとか持ちこたえていました。
しかし、食料もなくなり、落城に追い詰められた城側では、5月14日の夜、援軍要請の為、奥平家臣の鳥居強右衛門(とりい すねえもん)を密使に出します。
武田軍の厳重な警戒を抜けた強右衛門は、15日の午後、岡崎城に到着しますが、すでに信長軍と家康軍が出撃する態勢になってました。
信長と家康に報告した鳥居は、翌日にも長篠城救援の出陣という事をを知らされ、長篠城に知らせようと引き返します。
16日に城の目前まで来た強右衛門は、武田軍に見つかってしまい、捕らえられました。
捕らえられた強右衛門は、「勝頼に援軍が来ない」と言うように取引を持ち掛けられますが、城の前で援軍到着の事を叫び、その場で処刑されてしまいます。
城に援軍到着を知らせる鳥居強右衛門
しかし、これによって城方は奮起し、城を守り通すことが出来ました。
織田・徳川連合軍、着陣
5月18日、織田軍3万と徳川軍8千が長篠城手前の設楽原(しだらがはら)に到着します。
設楽原は原と言っても、小川や沢に沿って丘陵地が連なっており、見通しの悪い場所でしたが、信長はこの点を利用し、軍勢を相手から見えないように布陣し、川を堀に見立てた防御陣を構築します。
これは川の両面の台地を削って急斜面とし、さらに武田軍の騎馬隊に対して馬防柵を設けており、当時としては異例のものでした。
一方、信長到着の報告を聞いた武田軍では軍議が開かれます。
信玄時代からの重臣たち、特に武田四名臣と言われた、山県昌景(やまがた まさかげ)・馬場信春(ばば のぶはる)・内藤昌秀(ないとう まさひで)らは撤退を進言しますが、勝頼は戦いを決定しました。
1万5千対3万8千では、勝負にならないと思いますけど、勝頼には自信があったのか、それとも何もせずに撤退するのが許せなかったのですかね。
そして3千の兵で長篠城を牽制すると、残りの1万2千を設楽原に向けます。(ますますの戦力減)
信玄以来の古くからの重臣たちは、この敗戦を予感し、死を覚悟して集まり酒(水盃)を飲んで決別したとも言われています。
酒井忠次の奇襲
5月20日の深夜、信長は家康重臣の酒井忠次(さかい ただつぐ)を呼び出し、家康軍のうち弓・鉄砲の上手な者2千と信長の鉄砲隊5百に金森長近(かなもり ながちか)を検使に加えた4千の兵で別動隊を組織し、奇襲を命じます。
そもそもこの作戦は忠次の発案であったものですが、信長が武田軍に情報が漏れることを恐れ即座に却下していたものでした。
軍議後信長は密かに忠次を呼びつけて、忠次の発案を褒め、実行するように命じた逸話が「常山紀談」に載せられています。
別働隊は密かに正面の武田軍を迂回すると、翌日の夜明けには長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を後方より強襲しました。
鳶ヶ巣山砦は長篠城を包囲・監視するために築かれた砦であり、本砦に4つの支砦、中山砦・久間山砦(ひさまやまとりで)・姥ヶ懐砦(うばがふところとりで)・君が臥床砦(きみがふしどとりで)という構成でしたが、全て攻略されました。
さらに籠城していた奥平軍を加えた酒井隊は、追撃の手を緩めず武田支軍までも掃討したことにより、設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことにも成功します。
この奇襲により、武田軍は主将の河窪 信実(かわくぼ のぶざね 勝頼の叔父)をはじめ、有力武将を失いました。
設楽原出の決戦
5月21日早朝、設楽原では、武田軍が織田・徳川軍を攻撃し戦は8時間も続きます。
織田・徳川軍から追撃された武田軍は、鳶ヶ巣山砦の戦いも含めると10,000名以上の犠牲を出しています。
それにも増して、山県、内藤をはじめ、原昌胤(はら まさたね)、真田信綱(さなだ のぶつな)・昌輝(まさてる)兄弟、土屋 昌続(つちや まさつぐ)、望月 信永(もちづき のぶなが)など有力武将が討ち死にしています。、
一方の織田・徳川方の犠牲者には主な武将がおらず、徳川実記によると損害も60程度だったようです。
これは織田・徳川連合軍の大勝利ですね。
敗れた勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、一時は武節城に籠りますが、信濃(しななのくに 長野県、岐阜県の一部)の高遠城に後退しました。
上杉氏の抑えとして1万を率いていた武田四名臣の1人、春日虎綱(高坂昌信 こうさか まさのぶ)は上杉謙信(うえすぎ けんしん)と和睦し、勝頼と合流すると帰国していきました。
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スマイリー
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コメント
武田勝頼ははっきり言って無謀とも言える戦いに突入した心理って、いったいなんだったのでしょうね?
引く決断もできたと考えると、なんとも言えぬものが湧き上がります。
ほりほりさん
ありがとうございます。今の僕らには武田勝頼の心の中を覗くことはできませんが、勝てると信じたんでしょうね。
もしかしたら、情報を誤ってたかもしれません。(兵の数とか)