1年10か月に及ぶ羽柴秀吉の三木城兵糧攻めで、城内は地獄に(三木の干殺し)

今日は何の日?
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今日は何の日?

1580年(天正8年)1月17日は三木合戦が終了した日です。

三木合戦は織田信長(おだ のぶなが)の武将、羽柴秀吉(はしば ひでよし)播磨国(はりまのくに 兵庫県南西部)別所長治(べっしょ ながはる)との戦いでした。

羽柴秀吉は分かるけど、別所長治って?

                   別所長治

別所氏の出自

別所氏は室町時代、幕府で侍所の長官を務めることができた4氏(赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)の赤松氏の一族です。

赤松氏は播磨国の守護大名でしたが、嘉吉の乱以降支配力が衰えてきます。

代わりに一族の別所氏が三木城を拠点に東播磨に勢力を広げます。

この頃は、足利義昭(あしかが よしあき)を将軍に擁立した織田信長が畿内を勢力下に広げつつあり、また、播磨の西には毛利元就(もうり もとなり)以降、巨大になった毛利氏がおり、2大勢力に挟まれる形になっていました。

赤松氏の力が弱かった播磨国の武将達は、それぞれ織田氏、毛利氏と手を結び、織田氏と毛利氏も友好関係にありました。

しかし、信長によって足利義昭が京都を追放されると、義昭の要請により毛利氏は反織田となります。

当時の播磨

播磨では、1577年(天正5年)5月、中播磨の御着城(ごちゃくじょう)主・小寺政職(こでら まさもと)が毛利家と戦って織田氏についたのをはじめ、多くの勢力が織田氏寄りとなります。

その年の10月、羽柴秀吉が織田軍の指揮官として播磨にやってきて、宇喜田直家(うきた なおいえ)の支配下だった西播磨の上月城や福原城を攻略します。(宇喜田氏は毛利氏側だったため)

上月城に元、山陰地方の大大名だった尼子氏一族の尼子勝久(あまご かつひさ)や家臣の山中幸盛(やまなか ゆきもり)を入れ、播磨国を勢力下にします。

しかし、加古川城で行われた秀吉と別所吉親(べっしょ よしちか 長治の叔父)との会談で織田氏と別所氏の関係が悪化します。

どうやら、赤松氏一族という名門意識が秀吉との対立を招いたようです。

他にも、上月城での虐殺が織田氏に対して不信感を持ち、1578年(天正6年)2月吉親は長治を説得し、毛利氏側につきました。

別所氏の影響下にあった諸勢力も同調し、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏(みきし)や西播磨の宇野氏(うのし)が支援しました。

これにより、播磨の情勢が一変し、長治は三木城に籠城の方針を決定します。

三木合戦

長治の三木城には7,500もの人数が集まります。

その中には、東播磨の国人衆の他にその家族、浄土真宗の門徒なども含まれており、多くの食料を必要とすることとなります。

瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋(みき みちあき)により、兵糧の海上輸送が行われ、三木城に運び込まれました。

これに対し秀吉は、1578年(天正6年)3月29日、三木城の包囲を開始します。(秀吉って大軍での攻城戦が好きですね。鳥取城や備中高松城、小田原城もそうですし。)

4月1日に別所軍は近隣の領主と別所重宗(べっしょ しげむね 吉親の弟)を攻撃します。重宗は吉親と対立していたようで、織田側についていました。

秀吉も別所氏の支城を陥落させますが、同じ頃、毛利軍が3万の大軍で上月城を包囲します。(上月城の戦い)

秀吉は上月城を救うため、東播磨での戦を一時中止し、4月下旬には上月城東側の高倉山に布陣します。

しかし、兵力が少なく、毛利軍に手が出せずにいました。

そこで信長は、長男の織田信忠(おだ のぶただ)を総大将として2万の軍勢を上月城の救援に向かわせます。

ただ、救援軍の目的は三木城の支城包囲支援であり、丹羽長秀(にわ ながひで)滝川一益(たきがわ かずます)明智光秀(あけち みつひで)らが救援に行きますが、状況は打開できませんでした。

膠着状態が続いたため、織田軍は三木城攻略を優先し、高倉山から書写山へ撤退します。

毛利軍は上月城を攻略し、7月には上月城は降伏・開城しました。

その後、毛利軍は東進せず、織田軍は東播磨の攻略を再開します。

6月から10月にかけ三木城の支城を陥落させ、包囲のための付城を築いたため、別所軍は兵糧の補給が困難となりました。

兵糧確保のための戦い ~三木城落城へ~

しかし、ここで事件が起きます。

織田軍の武将・荒木村重(あらき むらしげ)が裏切り、毛利方のついて摂津国(せっつのくに 大阪府北中部の大半、兵庫県南東部)の有岡城に立て籠ったのでした。(有岡城の戦い)

 

荒木村重
秀吉軍は西に三木城、東に有岡城と挟まれた形になります。

しかも摂津国から兵糧を三木城へ届けるルートもできました。

秀吉の武将・黒田官兵衛(くろだ かんべえ)が村重を説得しに有岡城へ行きますが、逆に捕えられ有岡城に幽閉されてしまいます。

三木城は、村重の離反で補給路は確保されたものの、このままでは兵糧不足に陥るのは明らかなため、1579年(天正7年)2月6日、別所軍は秀吉の本陣である平井山に攻撃をかけました。

しかし、人数・地形共に別所軍に不利であり、長治の弟・別所治定(べっしょ はるさだ)まで討ち死にする敗戦となります。

5月には秀吉軍に摂津からの兵糧の中継地点である丹生山明要寺と淡河城(おうごじょう)を攻略され、再び補給が困難になりました。

9月10日に毛利軍と別所軍が出兵し、兵糧を三木城に運び込む作戦が実行されます。

毛利軍の補給部隊が三木城西側の平田陣地を攻略し、秀吉の武将を討ち取ります。

一方、別所軍は吉親が率いる3,000の兵で三木城外の大村付近に出兵し混戦となりますが、淡河定範(おうご さだのり 長治の義理の伯父)ら多くの武将が討ち取られ、兵糧の搬入は失敗しました。

10月になると、毛利方の宇喜田直家が離反します。

                 宇喜田直家

これにより毛利側と播磨・摂津が分断されてしまい、毛利氏の支援が不可能になりました。

この時、秀吉は別所氏に降伏を勧告しますが、拒否されています。

11月には、荒木村重の有岡城も落城します。

幽閉されていた黒田官兵衛は救出されています。

1580年(天正8年)1月には三木城の食料も尽きており、6日には長治の弟・別所 友之(べっしょ ともゆき)が守る宮ノ上砦が、11日には吉親が守る鷹尾山上が攻略され、残るは本丸だけとなりました。

14日には重宗の勧告により、城主一族の切腹を引き換えに兵の命を助ける条件が出されます。

別所側はこれを受け入れ、17日に長治一族が切腹します。但し、吉親は交戦しようと反対して城兵に殺されました。

こうして、1年10か月に及ぶ戦いは終わりました。

                  三木城跡

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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コメント

  1. この戦いにスマイリーさんが戦ていたら 歴史が変わっていいたかも。歴史に弱い私でも 知っている人の名前が何人か出て来て少しは、いつもより読めましたよ。

    • スマイリー より:

      平幸さん
      コメントありがとうございます。馴染みのある名前のある人が出てくると、歴史も面白くなってきますよ。
      僕も知らないこと沢山あるけど、すごく面白いです。

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