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今日は何の日?
1172年2月11日 平清盛の娘、徳子が高倉天皇の中宮になった日です。
平徳子(たいらの とくし)建礼門院徳子(けんれいもんいん とくし)
徳子は「とくし」と呼ぶようですね。ドラマなどでは「とくこ」となっていたので、「とくこ」と思ってましたが、平安時代に重箱読みである「とくこ」とは呼ばなかったらしいです。
なので、この場では「とくし」とします。
「とくし」の方が平安貴族の女性っぽいですが。
父は平清盛(たいらの きよもり)、母は平時子(たいらの ときこ)。
久寿2年(1155年)生まれ。
第80代高倉天皇(たかくら てんのう)の中宮となり、言仁親王(ときひと しんのう)後の安徳天皇(あんとくてんのう)を産んでいます。
入内(じゅだい)の経緯
父の清盛は武士として力をつけてきており、保元元年(1156年)の保元の乱、平治元年(1160年の)平治の乱で勝利すると、武士で初めて公卿となります。
仁安元年(1166年)10月10日、後白河上皇は清盛の支援で憲仁親王(のりひと しんのう)後の高倉天皇の立太子を実現し、院政を開始します。
この功か清盛は、内大臣に任じられるとういう破格の待遇を受けました。
しかし、後白河院政には院近臣・堂上平氏(どうしょうへいし)・武門平氏(清盛はこのグループ)・摂関家などがいて、利害が対立していました。
高倉天皇が即位した後も、嘉応の強訴の対策で後白河院と平氏の政治路線が表面化し、殿下乗合事件では摂関家と平氏の衝突がありました。
嘉応の強訴(かおうのごうそ)
嘉応元年(1169年)、延暦寺の大衆(だいしゅ 僧・僧兵)が尾張国(おわりのくに 愛知県)の知行国主・藤原成親(ふじわらの なりちか)の配流を求めて強訴した事件。
後白河院は成親を擁護するが、上流貴族や平氏が協力せず、政治が紛糾した事件。
殿下乗合事件(でんかのりあいじけん)
嘉応2年(1170年)摂政の松殿基房の一行がが清盛の孫・資盛(すけもり)と遭遇し、基房の従者がその無礼を咎めて乱暴狼藉を働いた事件。
この事を知った父・重盛(しげもり)は基房の従者を襲撃して報復を行っている。
この事から承安元年(1171年)高倉天皇が元服すると、徳子入内の話が持ち上がります。
清盛にとっては天皇の義父となり、将来の天皇の祖父を目指せ、後白河院としては政治を安定させるため清盛の協力が必要であり、入内が実現します。
ここには高倉天皇の治世安定を願う建春門院(けんしゅんもんいん)の意向がありました。
建春門院(平慈子 たいらの しげこ)高倉天皇の母であり、平時子とは姉妹の関係です。
この人が清盛と後白河院の間に入り、調整役となっていました。
12月16日、徳子は女御となると、翌承安2年(1172年)2月10日には立后して中宮となります。
高倉天皇との間にはしばらく子供は産まれませんでしたが、治承2年(1178年)5月24日に懐妊が明らかとなると、朝廷では安産祈願の祈祷に明け暮れます。
そして、11月12日に皇子を出産し、翌12月に「言仁」の名前が定められ、立太子します。
国母として
治承3年(1179年)11月14日、清盛はクーデターをおこし後白河院を鳥羽殿に幽閉します。(治承3年のクーデター)
翌治承4年(1180年)2月21日、高倉天皇は3歳の言仁親王に譲位し院政を開始すると、高倉院庁の別当は平氏一門と親平氏貴族で固められます。
4月22日の天皇の即位式では、徳子は安徳天皇を抱いて高御座に登っています。
しかし、成立したばかりの高倉院政は以仁王(もちひとおう 高倉天皇の異母兄)の挙兵によって揺さぶられます。
この挙兵は早期に鎮圧されますが、園城寺や興福寺などの反平氏勢力が残っており、6月2日に高倉上皇は清盛の強い意向で福原行幸を行います。
しかし、遷都計画の挫折や上皇の体調不良、各地の反乱激化により11月には京都に戻りました。
徳子は行幸の際は安徳天皇と同輿するなど母后としての責務を果たしていましたが、12月になると院号宣下を受けて后位を退き、病床の高倉上皇と同居することが検討されます。
安徳天皇と同輿する准母には近衛基実(このえ もとざね)の娘が候補に挙がりますが、叔父の服喪で准后宣下が延引されるという事態になり、代わりの准母として徳子は妹で近衛基通(このえ もとみち)の正室の完子(さだこ/かんし)を推しています。
但し、結局は基実の娘が准母となっていますが。
夫の崩御と父の死
この頃、高倉上皇の病状は悪化の一途をたどり、治承5年(1181年)正月14日に21歳で崩御します。
この日の前日に上皇没後の徳子を後白河院の後宮に納めるという案が出ますが、さすがに徳子は拒否し、後白河院も辞退したそうです。
義父と娘の関係ですからね、当然でしょう。
代わりに異母妹の御子姫君(みこのひめぎみ)が後白河院の後宮することとなりました。
高倉上皇の崩御により後白河院政の復活は避けられないものとなり、平氏は国政に関与する手段を失ってしまいます。
それでも徳子の中宮の地位を利用して影響力の保持を図ろうとします。
平頼盛(たいらの よりもり)の八条邸への安徳帝行幸が中宮令旨によって諮問され、高松院領荘園も高倉上皇の遺言と称して徳子に相続されました。
しかし清盛は熱病に倒れて、閏2月4日に死去します。
清盛の死後、後白河院は安徳天皇を八条頼盛邸から閑院に遷し、11月25日に徳子が院号宣下(建礼門院)を受けると殿上人(てんじょうびと)を自ら清撰しました。
平氏と後白河院の間で調整役を果たしていた建春門院もすでになく、後白河院も院政停止、幽閉を経たことで平氏に対し憎しみを抱いており、夫と父を失った徳子には対立を押さえる力はありませんでした。
平氏滅亡後の徳子
寿永2年(1183年)5月、平氏の北陸追討軍が木曽義仲(きそ よしなか)に敗れた(倶利伽羅峠の戦い)事で軍事バランスが崩れます。
延暦寺が義仲軍についたことで、京との防衛を断念した平宗盛(たいらの むねもり 同母兄)は徳子に都落ちを伝えます。
しかし、7月24日深夜、後白河法皇は密かに法住寺殿から比叡山に脱出しており、翌25日、法皇の脱出を知った宗盛は六波羅に火を放ち、安徳天皇・徳子・近衛基通・一族を引き連れて都落ちします。
都に戻った後白河法皇は平氏追討宣旨を下し、ここに平氏は官軍から賊軍に転落することになり、西国に落ちた平氏は元暦2年(1185年)壇ノ浦の戦いで滅亡します。
安徳天皇や時子は入水しますが、徳子は生き残り、宗盛や平時忠(たいらの ときただ)らと京都に護送されます。
宗盛は斬首、時忠は配流となりますが、徳子は罪に問われることなく洛東の吉田に隠棲し、5月1日に出家して直如覚尼と名乗ります。
7月9日には大地震が京都を襲ったため、9月に比叡山の麓の大原寂光院に入ります。
「平家物語」では文治2年(1186年)4月に後白河院がお忍びで大原を訪れたとあり、その後の徳子の動静ははっきりしていません。
諸説ありますが、建保元年(1213年)に生涯を閉じたとする説が一般的のようです。
徳子が隠棲した寂光院
徳子の陵は寂光院の隣接地(大原西陵)にあり、各地の水天宮でも安徳天皇と共に祀られています。
また、京都市東山区の長楽寺にもお墓があります。
その他徳子関連
・1981年1月18日に発見された小惑星には建礼門院と名付けられています。
小惑星に徳子の名をつけるなんてロマンがありますね。
・大原で隠棲していた徳子に里人が漬物を差し入れたところ、大いに気に入り徳子が柴漬と命名したという伝承があります。
・寂光院の近くには有名観光地の大原温泉があります。
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スマイリー
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コメント
建礼門院徳子はいろんな人が小説書いてるから、実のところ、感情移入が出来ない人物の一人です!
セフィママさんは色んな本を読まれてますね。
権力を持つのに権力者と縁戚になるのが、早道とは言えこの時代の女性の心情はどうだったんでしょうね。
スマイリーさん、建礼門院徳子のことは小説も読みましたが、なんといっても、平家納経です。なるべく史実にもとづくというスマイリさんの姿勢が読みやすく、入ってきます。楽しく読ませて頂きました。
Sakoさん
どうもありがとうございます。Sakoさんの本好き、歴史好きというのが伝わってきました。是非、お勧め本も教えて下さい。