上杉謙信対武田信玄どちらの勝ち?最大の激戦、第4次川中島の合戦

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1561年9月10日 第4次川中島の合戦、上杉謙信(うえすぎ けんしん)軍と武田信玄(たけだ しんげん)軍の死闘。

 

(便宜上、上杉謙信と武田信玄で統一してます)

上杉軍と武田軍の戦いは川中島で5回行われたと言われてますが、その中で最大の激戦になりました。

武田氏と上杉氏との争いのきっかけ

武田信玄の父、信虎(のぶとら)の頃には、甲斐国(かいのくに 山梨県)を統一し、他国に打って出ようとしてました。

しかし、信虎は信玄らにより甲斐国を追放されてしまいます。

跡を継いだ信玄は、信濃国(しなののくに 長野県)の制圧に乗り出します。

信濃国には大きな大名がおらず、有力武将らが分立していました。

その中で村上義清(むらかみ よしきよ)と言う武将が、北信濃に力を持っていました。

信玄は一度は義清に敗北し、(上田原の戦い)義清の支城・砥石城の攻略にも敗退します(砥石崩れ)が、結局は攻略し、義清は本拠の葛尾城に孤立する状態でした。

また、その頃の信濃守護は小笠原長時(おがさわら ながとき)と言う武将でしたが、信玄はこちらも打ち破り(塩尻峠の戦い)、信濃から追い払います。

第1次合戦

天文22年(1553年)4月、信玄は信濃へ出兵して、小笠原氏の残党や村上氏の諸城を攻略します。

支えきれなくなった義清は葛尾城を捨て、越後国(えちごのくに 新潟県)へ逃れ、上杉謙信(当時は長尾景虎 ながお かげとら)に支援を求めます。

支援を得た義清は反攻し、一時は葛尾城を奪回しますが、武田軍は再度侵攻したため、義清は立て籠もっていた塩田城を捨て再び越後に逃れました。

9月に自ら出陣した景虎は、武田軍の先鋒を破り、城を落としますが、塩田城にいた信玄が戦いを避けたため、越後に帰還します。

そして、信玄も10月には甲府に帰還しました。

第2次合戦

この戦いは天文24年(1555年)に行われ、200日の長期にわたり対峙することとなります。

この頃には、武田氏の勢力が浸透してきており、善光寺の国衆が武田氏に寝返り、長野盆地の南半分が武田氏の勢力範囲に入ります。

信玄は同年3月に出陣し、謙信も善光寺奪回の為、4月には出陣しました。

両軍は犀川を挟み対峙し、謙信軍は戦いを仕掛けますが、決着がつきませんでした。

当時、加賀国(かがのくに 石川県南部)では一向一揆が勢力を持っており、その抑えとして越前国(えちぜんのくに 福井県)の武将・朝倉宗滴(あさくら そうてき)が上杉軍に呼応して出陣していました。

その宗滴が亡くなり、北陸地方に不安を感じた謙信は今川義元(いまがわ よしもと)の仲介により和議を結び、両軍は撤兵しました。

これにより、上杉氏は長野盆地の北半分を確保しています。

また、その後信玄は木曽郡の木曽義康(きそ よしやす)・義昌(よしまさ)父子を降伏させ、南信濃を平定させました。

第3次合戦

この戦いは弘治元年(1557年)に行われました。

この前年には謙信の出家騒ぎが起きたり、謙信家臣の大熊朝秀(おおくま ともひで)が武田方に内通し、挙兵する事件が起こっています。

挙兵に失敗した朝秀は、この後甲斐に亡命し武田氏の家臣となりました。

この戦いでは信玄は上杉方の前線拠点であった葛山城を落とし、上杉氏の盟友・高梨政頼(たかなし まさより)の居城・飯山城に迫ります。

対して、謙信も出陣し、北信濃の武田方の城を攻めたり、調略を行います。

武田方は7月に川中島に侵攻し、8月下旬には武田軍と上杉軍の合戦が起きますが、上杉軍では大した成果もなく、9月に越後へ引き揚げ、10月には信玄も甲斐へ帰国しています。

謙信、関東管領に就任

天文21年(1552年)長尾氏の主家であり、関東管領の上杉憲政(うえすぎ のりまさ)が北条氏康(ほうじょう うじやす)に敗れ、越後に逃れてきます。

憲政は謙信に上杉氏の家督と関東管領の譲渡を申し入れます。

謙信は関東管領就任の許しを得る為に上京し、将軍・足利義輝(あしかが よしてる)に関東管領就任を許されました。

大義名分を得た謙信は、永禄4年(1561年)3月、北条氏康の居城・小田原城を10万の大軍で包囲します。

この時、氏康は同盟者の信玄に援助を要請し、これに応えた信玄は北信濃へ出兵し、海津城を築きました。(城主 高坂昌信 こうさか まさのぶ)

背後を脅かされた謙信は小田原城の包囲を解き、越後へ帰国します。

第4次合戦

関東の制圧を目指す謙信にとって、信濃と越後の国境を固めることは急務であり、その為、武田氏の前線拠点・海津城を攻略する必要がありました。

同年8月、謙信は18000の兵で越後を発すると、8月15日には善光寺に着陣し、5000を残すと自ら13000の兵を率い南下し続け、犀川、千曲川を渡り、長野盆地南部の妻女山(さいじょざん)に陣取ります。

妻女山は海津城の南に位置し、川中島の東にある海津城と相対していました。

高坂昌信より謙信の出陣を聞いた信玄は、16日に甲府を出発します。

29日に信玄は海津城に入城しますが、膠着状態が続きます。

士気の低下を恐れた信玄の重臣たちは決戦を主張しますが、信玄は謙信の強さを知っており慎重になっていました。

信玄は山本勘助(やまもと かんすけ)馬場信房(ばば のぶふさ)に対上杉軍の作戦立案を求め、2人は軍を2手に分ける作戦を献策します。

一方が妻女山の上杉軍を奇襲し、麓の平地部に追い出したところを一方が待ち伏せて殲滅するという有名な「キツツキ戦法」ですね。

9月9日の深夜、馬場信房・高坂昌信らを大将とする12000の軍が妻女山に向かい、信玄は8000の軍で麓の八幡原に鶴翼の陣で布陣していました。

しかし、この作戦は謙信に察知されていました。

海津城での炊煙がいつになく多い事から、謙信は不審に思い、妻女山の兵を全て移動し、夜陰に乗じ密かに山を下っていたのでした。

10日の8時頃、霧が晴れた時、信玄軍の前に13000の大軍が現れました。

8000対13000、信玄軍は大いに動揺します。

謙信は猛将の柿崎景家(かきざき かげいえ)を先鋒に車懸りの波状攻撃で武田軍に襲い掛かりました。

武田軍は防戦一方となり、多くの重臣を失うこととなります。

弟で副将格の武田信繁(たけだ のぶしげ)、山本勘助らが討ち死にしていますが、特に信繁の戦死は大きな痛手でした。

また、この合戦では、謙信対信玄の一騎打ちのシーンが有名ですね。

謙信は馬で信玄の本陣に突撃し、床几(しょうぎ)に座る信玄を3度も太刀打ちし、信玄は軍配(ぐんぱい)で防いだという話。

勇ましいシーンですが、実際にはそこまでできたのか疑問です。(斬りかかったのは、他の武将だったとの説も)

妻女山に奇襲に向かった別動隊ですが、慌てて急行し、10時頃には八幡原に到着します。

武田本軍もなんとか猛攻に耐えており、今度は上杉軍が挟撃される形となりました。

形勢不利となった謙信は、兵を引き善光寺に敗走します。

信玄も追撃をやめ、16時頃には合戦は終わりました。

謙信は善光寺にいた5000の軍と合流し、越後に帰国します。

この戦では上杉軍に3000、武田軍にも4000の死傷者を出し、大激戦となったことが分かります。

どちらも勝利を宣言していますが、どちらの勝ちか判断するのは難しそうです。(個人的には、軍事的に限ると上杉の勝ちのような気もしますが)

この後5次合戦も行われますが、流石に懲りたのかにらみ合いで終わっています。

                川中島古戦場

 

 

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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コメント

  1. セフィママ より:

    スマイリーさん、こんにちは!
    楽しく読ませていただきました(^^)
    どっちも勝った〜って言う戦、再現フィルムがあれば良いね

    • スマイリー より:

      セフィママさん
      コメントありがとうございます。
      そうですよね。これだけの大戦さ、本人たちが勝手に勝ったと言ってますからね。再現フィルムを本人たちに見せてあげたいです(笑)

  2. ほりほり より:

    信玄対謙信の戦いは、本当の戦巧者同士の駆け引きの妙を味わえますね!
    当事者からしたら身の縮む思いでしょうが、後世の読者からしたらワクワクもんです!(^^)

    • スマイリー より:

      ほりほりさん
      コメントありがとうございます。
      確かに。当事者はただの殺し合いですが、後世の人が見ると映画みたいでカッコイイでしょうね。

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