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今日は何の日?
1531年(享禄4年)6月8日は細川高国の命日です。
細川高国とは?
細川高国は細川氏支流の野州家の出身で、細川政春の子として誕生しました。
その後本家筋の細川政元の養子となり、細川京兆家の第15代当主となり、室町幕府の第31代管領となっています。
3人の養子
この頃の細川家当主は政元でしたが、政元は不思議な人物で修験道に没頭していて、身近に女性を近づけず独身でいました。
当然実子もおらず、養子を迎えることになります。
1人目は、関白・九条政基の末子で、後に細川澄之と名乗る人物です。
九条家との繋がりが欲しかったのでしょう。
養子に迎えると代々京兆家で「聡明丸」と受け継いがれていた名を与え、後継者に指名します。
しかし、政元とは不仲であり、細川家以外からの養子に後悔した政元は、澄之を廃嫡(相続から外すこと)し、新たに細川阿波守護家から2人目の養子を迎えます。
こちらが後の細川澄元です。
澄元には、当時の将軍・足利義澄から一字が与えられており、(澄之にも与えられていますが)「元」と言う字も京兆家の者が名乗る字であり、相続対象者という事が分かります。
(京兆家の勝元、政元には「元」と付いてますしね)
そして、3人目が高国でした。
高国には、義澄が義高と名乗っていた頃の「高」の字が与えれています。
結局3人とも同じ将軍からは名前の一字を受け継いでいますが、家の格が違いました。
九条家の澄之>阿波守護家の澄元>高国の順です。
永正の錯乱(えいしょうのさくらん)
1507年(永正4年)6月、京兆家で大事件が起こります。
当主の政元が澄之派の重臣に暗殺されたのです。
澄之は相続対象からもれ、恨みを持ってたでしょうし、澄之派の重臣も勢力が弱くなることに不満を持っていたでしょう。
澄元も暗殺されるところを、家臣の三好之長と共に近江国(滋賀県)へ逃れていきました。
一方の高国は、細川氏一門をまとめ、澄元と共に澄之派の討伐にかかります。
澄之派は敗れ、澄之も自害してしまい、40日と言う短命の政権で終わりました。
勝った澄元は、将軍・義澄に対し細川京兆家の相続を承認させます。
しかし、このままでは終わりませんでした。
次は澄元との争い
この一連の政変を好機と見た周防国(山口県の東南半分)の大名・大内義興が、庇護していた前将軍・足利義稙を奉じて上洛したのです。
澄元の命令で義興と和平交渉をしていた高国は義稙側に寝返り、伊勢国(三重県北中部・愛知県一部・岐阜県一部)へ逃れました。
1508年(永正5年)に入ると、高国は京へ侵攻し、澄元や足利義澄を近江へ追放します。
その後澄元側の武将を滅ばすと、大内義興と共に入京し、足利義稙を将軍に復帰させ、自らは管領に任命されます。
1509年(永正6年)澄元の重臣・三好之長が京都へ侵攻すると、義興と協力し撃退します。(如意ヶ嶽の戦い)
しかし、翌年近江へ侵攻した際は大敗し、さらに1511年(永正8年)には、細川政賢や赤松義村まで澄元に加担し、京と侵攻を受けました。
一時は劣勢に追い込まれ高国は丹波(京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)まで撤退しますが、澄元側の擁する前将軍・足利義澄が病死してしまい、8月24日の船岡山合戦に勝利します。
これにより、澄元は阿波(徳島県)へ撤退していきました。
しかし1518年(永正15年)、それまで政権を支えていた大内義興が帰国してしまいます。
国元で不穏な動きがあったり、義稙との対立も原因のようです。
このため高国は単独で政権を運営することとなり、義興の軍事力を失った事が痛手となりました。
これを好機と見た澄元と三好之長は摂津(大阪府北中部の大半・兵庫県南東部)に進出し、またもや窮地に陥ります。
大内軍不在の高国勢は近江まで追い払われ、しかも保身を図ろうとした義稙に澄元へ内通されてしまいました。
しかし、六角氏・朝倉氏・土岐氏の支援を受けた高国は、再度挙兵し、京都へ侵攻すると、之長を自害に追い込み澄元を摂津に敗走させます。(等持院の戦い)
1520年(永正17年)6月10日、澄元は阿波勝端城で病死すると、敵対者のいなくなった高国は事実上の天下人となりました。
高国を裏切った義稙は翌年3月には京都を出奔したため、高国は新たに12代将軍としてかつての敵対者だった義澄の子・足利義晴を擁立します。
その後も義稙からの侵攻を何度か受けますが、1523年(大永3年)4月には義稙も亡くなり高国の勝利で終わります。
新たな敵・細川晴元
足利義晴を擁立した高国は管領に任命されます。
1525年(大永5年)4月21日には、剃髪し道永と号し、家督と管領職を嫡子の稙国に譲り隠居します。
しかし稙国が12月に亡くなると、当主として復帰します。
1526年(大永6年)7月13日、従弟の細川尹賢の讒言を信じた高国は、重臣の香西元盛を謀殺してしまい、これを知った、元盛の兄弟・波多野稙通と柳本賢治は高国に背き、丹波で挙兵します。
高国は尹賢に鎮圧させますが敗退し、しかもかつて敵対していた澄元の子・細川晴元と之長の孫・三好元長までが阿波で挙兵します。
嫡男の細川稙国を失っていた高国には、32歳年下の弟・細川晴国がいましたが、晴国は実家の野州家を継ぐことが決まっていたため、京兆家には尹賢の子・細川氏綱を養子に迎えることにし、晴国と氏綱の元服を同時に行います。
1527年(大永7年)2月には柳本賢治や三好元長により京都へ侵攻され、桂川で迎撃したものの敗れた高国は、足利義晴を擁したまま近江坂本へ逃れました。(桂川原の戦い)
こうして高国政権は崩壊しますが、10月には越前国(福井県嶺北地方・敦賀市)の大名・朝倉孝景に支援を要請し、地位の回復を目論みます。
朝倉氏の加勢を得た高国は上洛を果たしますが、朝倉軍が越前に帰国すると再び近江へ逃れます。
その後は伊賀国(三重県西部)の武将・仁木義広や婿で伊勢国司の北畠晴具、越前国の朝倉孝景、出雲国(島根県東部)の大名・尼子経久らを頼り落ち延びていきます。
備前国(岡山県東南部・香川県小豆郡・直島諸島・兵庫県明石市の一部)の大名・浦上村宗を頼り畿内を脅かすと、柳本賢治が浦上方の城を攻撃しに出陣しました。
賢治は村宗の放った刺客に暗殺され、高国は村宗と京都に進軍しました。
高国は京都帰還を果たすと、晴元を打倒するため出征しますが、1531年(享禄4年)3月、三好元長の反撃で機先を制されてしまい、膠着状態に陥ります。
6月になって赤松晴政の支援を得た高国でしたが、晴政の父は村宗に殺されており、村宗は敵で、晴政は晴元側に内通していました。
晴政に裏切られた高国・村宗軍は総崩れとなり、村宗は討ち死に、高国も尼崎へ逃走します。
(大物崩れ)
元長らの厳しい捜索により紺屋の甕の中に隠れていた高国は発見され、尼崎の広徳寺で自害させられました。享年48
スマイリー
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コメント
スマイリーさん、こんばんは。細川高国という人は知りませんでした。随分数奇な人生を送った人ですね。色々な勢力がひしめき合っていますね。興味深く読ませていただきました。
Sakoさん
いつもありがとうございます。この人、地位は高かったけど、歴史的には役に立たなかったんでしょうね。歴史の教科書にも出てきませんし。
単に権力を求めて争っただけでしたしね。