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またまた日を過ぎた賞味期限切れの投稿です。
3月15日 今日は何の日?
1429年足利義宣が室町幕府6代将軍となり、義教(よしのり)と名を改める。
だいたい、6代将軍なんてマイナーですよね。
歴史の教科書でも載ってるのかな?
鎌倉でも室町でも江戸時代でも、大体、初代・3代・5代・8代・最後の将軍とか執権は出ますけどね。
ただ、この人の時代は、事件とか反乱が多い。恐怖政治を敷いたためですかね。
足利義教(あしかが よしのり)
生誕 応永元年6月13日(1394年7月11日)-嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)
3代将軍足利義満の子。兄に4代将軍足利義持がいます。
本来であれば、将軍職は兄の系統が継ぐはずで、5代将軍には義持の子・義量(よしかず)が引き継いでいます。
足利義教像
将軍就任の経緯
しかし、義量が19歳と言う若さで亡くなり、当然嫡子がなかった為、義持がもう一度政務をとります。
(と言っても、義量の時代でも義持が実権は持っていたようですが。)
義教は弟という事もあり、元々将軍候補からも外れていて、応永15年(1408年)3月4日には僧侶となる儀式を行い、義円と名乗っていました。
そして応永26年(1419年)には天台座主(比叡山延暦寺の住職)となり、天台開闢以来の逸材と呼ばれるほど将来を期待されてました。
しかし、義持が応永35年(1428年)1月に病となり、危篤になっても次の将軍を指名しなかったことから問題が発生します。
幕臣たちが話し合い、義円を含む義持の4人の弟たちの中から選ばれることになり、1月17日に石清水八幡宮でくじが引かれ、義持の死後開封されると義円に決まりました。
このことからくじ引き将軍と呼ばれます。
この結果は義円に報告され、幾度か義円は辞退しますが、諸大名が重ねて強く要請した為に応諾します。
(辞退していれば、後に哀れな最後を迎えずに済んだでしょうし、評判の悪い将軍として名も残らなかったでしょうね。)
幕閣はこの将軍不在と言う空白を埋めようと、1日も早い将軍就任を望みますが、義円が元服前に出家していた為、還俗しても子供のままでした。
また、還俗して将軍になった先例もないと言う理由で反対がでます。
3月12日に義円は還俗し、義宣(よしのぶ)と名乗り従五位下左馬頭という官位に就きますが、将軍就任とはなりませんでした。
この為、鎌倉公方の足利持氏が将軍に就任するのではとの噂が流れ、京都では不穏な空気が流れます。
正長2年(1429年)3月15日には義宣は義教と改名して、征夷大将軍となります。改名の理由は、義宣(よしのぶ)という名が「世を忍ぶ」に通じるという噂があったらしいです。
義教の政治
こうして将軍になった義教ですが、政策は父親の義満を手本としたようです。
兄の義持は義満のの政策に反発して、調整型の政治を行いますが、これが却って将軍の権威を弱めてしまったことから、将軍親政の復活を目指します。
義持の時代から中断していた勘合貿易を再開させたり、寺社勢力への介入を積極的に介入させたりと幕府の権力強化につとめています。
元々天台座主だった義教は還俗すると、弟の義承を天台座主に任じて天台勢力の取り込みを図ります。
永享6年(1434年)7月、延暦寺が鎌倉公方・足利持氏と通謀して義教を呪詛しているという噂が流れます。
8月に義教は近江(滋賀県)の守護に命じ、近江国内の延暦寺領を押さえさせ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げます。
これに対し延暦寺は神輿を奉じて入洛しようとしますが、幕府の兵に撃退されました。
11月には比叡山の門前町である坂本に火をかけ住民が避難する騒ぎとなります。
12月には延暦寺は降伏して和睦が成立しますが、本心では義教は許しておらず延暦寺代表の4人を殺害してしまいます。
永享の乱~最後
このように残虐な一面を持つ義教ですが、有名な事件は永享の乱・そして自らが命を落とした嘉吉の乱ですね。
永享の乱
義教と仲の悪い鎌倉公方足利持氏は、義教没後には自分が将軍に就任できると思っていたようです。
そんな時たびたび持氏を諫めていた関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)は、持氏に疎まれたことに身の危険を感じ、自国に逃亡し持氏から討伐を受けます。
これを好機と感じた義教は憲実と結び、持氏の討伐を行います。
敗退した持氏は剃髪して義教に恭順の姿勢を示しますが、義教は憲実の助命嘆願にもかかわらず、持氏一族を殺害してしまいます。
これが原因となって、永享12年(1440年)持氏の遺児たちが結城氏朝(ゆうきうじとも)によって担がれ、謀反が起きる結城合戦が起きています。
また、弟・義昭が挙兵したという名目で大和(奈良県)の国人を討伐し、弟まで殺害させたり、有力守護大名の家督継承にまで積極的に干渉し、将軍の力を強める政策を取った為に反発した大名を殺害しています。
これらの事件は大名に対して大きな不安を与えてしまいました。
永享9年(1937年)頃から大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)も将軍に討たれるのではという噂が流れていました。
その上義教は、満祐の弟の所領を自分が重用する赤松家の分家の家臣に与えてしまいます。
こういった事が赤松家に将軍殺害へと向かわせたんでしょうか。
満祐の息子・教康(のりやす)は結城合戦が無事終了したことを名目に、義教を酒宴に自宅へ招きそこで討取ります。享年48
義教の首塚とされる崇禅寺(左)と安国寺(右)
この時に義教に随行した多くの大名も巻添いをくらい死傷したものが多く出ました。
この混乱の中、満祐・教康父子は領国の播磨(兵庫県)に戻ります。この件には関わった者が他にいると思われていた為か、すぐに追討されませんでしたが、赤松父子の単独犯という事が分かると、義教の葬儀が終わった7月10日には追討が始まり、2ヶ月半後には赤松家は滅ぼされます。
結局義教は亡くなり、赤松家の嫡流も一旦は滅びますが、当時の伏見宮貞成親王の日記には「赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来例を聞いたことがない」と酷評されてます。
義教のあとは息子の義勝が継ぎ、1年ほどの就任で亡くなってしまうと、義勝の弟の義政が8代将軍へと続きます。
スマイリー
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コメント
こんにちは、トンチーです。6代将軍義教は、僧侶から、くじ引きで、将軍になられたのです
か。
欲をすてるべき立場の人が、欲にしがみつき悪政をはたらいたのですね。
どんな人間も欲は、捨てられないものですね。勉強になりました。
トンチーさん こんにちは
義教はもともと3男(4男だったかな)なので、僧侶にされてたんですね。しかし、4代将軍義持に男子がいなくなったので、急遽将軍候補になったんですね。しかも、くじ引きで当選(笑)
今思うと、タイトルが変でしたね。坊さん出身と書くと、元々が坊さんの家系の様に聞こえるかもしれません。あくまで、坊さんを経験しただけなんですけどね。
トンチーさんのコメントで気付くことができました。ありがとうございます。
もしかしたら、義教は将軍の権威を高めたかっただけかもしれませんが、周りから見ると悪政を敷いてるだけに見えますね。