一代で全盛を築いた「肥前の熊」も驕りから島津氏に敗れる。龍造寺隆信

今日は何の日?

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今日は何の日?

1529年2月15日 龍造寺隆信の誕生日です。

龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)?それ、誰? 龍造寺氏を全盛期に導いた人で、渾名(あだな)が肥前の熊。

家督相続

龍造寺隆信は享禄(1529年)に肥前国(ひぜんのくに 佐賀・長崎県)水ヶ江城東館天文屋敷で龍造寺周家(りゅうぞうじ ちかいえ)の長男として誕生し、7歳の時に出家して円月と名乗っています。

円月は12,3歳の頃には、20歳程の知識があり、腕力も抜群だったようです。

この頃の龍造寺氏は少弐氏に仕えていました。

少弐氏は鎌倉時代に源頼朝(みなもとの よりとも)から武藤資頼(むとう すけより)という人物が、大宰府の次官である太宰少弐に任命されたことにより北九州地方に地盤を持った名族でした。

この頃には少弐氏は落ち目ではありましたが。

天文14年(1545年)、円月の祖父・家純(いえすみ)父・周家が謀反の嫌疑がかかり、少弐氏重臣の馬場頼周(ばば よりちか)により誅殺されます。

大半の龍造寺一族も殺されました。

円月は曽祖父の家兼(いえかね)に連れられ、筑後国(ちくごのくに 福岡県南部)の蒲池氏(かまちし)の元へ脱出します。

天文15年(1546年)家兼は蒲池鑑盛(かまち あきもり)の援助で馬場頼周を討ち、龍造寺氏を再興しますが、家兼は高齢の為、1年後には病死します。

円月の器量を見抜いていた家兼は、円月に還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐよう遺言します。

それに従い翌年に還俗して胤信(たねのぶ)と名乗り、家督を継ぎました。

しかし、家督を継ぐには、一族・老臣の間で意見が割れ、八幡宮で籤(くじ)を引ことで神意を問うことにし、三度とも胤信を選んだ為、家督相続が決定したようです。

その後龍造寺本家の胤栄(たねみつ)に従い、天文16年(1547年)には胤栄の命で主君だった少弐冬尚(しょうに ふゆひさ)を攻め勢福寺城から追放します。

天文17年(1548年)胤栄が亡くなると、その未亡人と結婚し、本家の村中龍造寺の家督も継承します。

しかし、胤信の家督継承に不満を持つ家臣も多く、これらを抑える為、西国一の戦国大名・大内義隆(おおうち よしたか)と結びます。

天文19年(1550年)には義隆より山城守(やましろのかみ)敷奏(ふそう 天子に奏上すること)され、さらに「隆」一字を与えられ隆胤(たかたね)と改め、その後隆信と名乗ります。

こうして隆信は大内氏の力を背景に家臣の不満を抑えます。

また、同年、祖父・家純の娘である重臣・鍋島清房(なべしま きよふさ)の正室が亡くなると、隆信の母・慶誾尼(けいぎんに)は清房とその子・直茂(なおしげ)は龍造寺家に欠くことのできない存在として、押しかける形で清房の後室となっています。

肥前統一へ

天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢(すえ はるかた)の謀反により自害します(大寧寺の変)

後ろ盾を失った隆信は、密かに大友氏に通じて龍造寺鑑兼(りゅうぞうじ あきかね)を当主に擁立しようとした家臣らによって肥前を追放されます。

筑後に逃れると、再び蒲池鑑盛を頼り、身を寄せ、天文22年(1553年)には蒲池氏の援助で勝利し肥前の奪還を果たします。

その際、鑑兼は正室の兄でもあり、佐嘉郡に帰らせ所領を与えています。

その後は勢力拡大に奔走し、永禄2年(1559年)には少弐冬尚を攻め、勢福寺城で自害させ少弐氏を滅ぼします。

また、肥前の国人を降し、永禄3年(1560年)には千葉胤頼(ちば たねより 冬尚の弟)を滅ばします。

さらに少弐氏旧臣の馬場氏・横岳氏なども降し、永禄4年(1561年)には川上狭合戦神代勝利(かみしろ かつとし)を破ると、永禄5年(1562年)までに東肥前の支配権を確立します。

このような急速な勢力拡大が近隣の有馬氏や大村氏などを震撼させ、永禄6年(1563年)に両家が連合して東肥前に侵攻します。

この時、隆信は千葉胤連(ちば たねつら 鍋島直茂の養父)と同盟を結び勝利します。

これにより南肥前にまで勢力が及ぶようになると、今度は大友宗麟(おおとも そうりん)が危険視し、少弐氏の生き残りである少弐政興(しょうに まさおき 冬尚の弟)を支援し、これに少弐氏旧臣が加わって隆信に対抗してきました。

永禄12年(1569年)に宗麟自らが大軍を率い肥前侵攻を行いますが、毛利元就(もうり もとなり)豊前国(ぶぜんのくに 福岡県東部・大分県北部)に侵攻してきたため肥前から引き上げています。

元就を破った宗麟は、元亀元年(1570年)弟の大友親貞(おおとも ちかさだ)を総大将とする軍を肥前に侵攻させますが、隆信は鍋島直茂による奇襲策により親貞を討取り、撃退します。(今山の戦い)

その後大友氏とは有利な条件で和睦を結ぶことができましたが、局地戦での勝利であった為、大友氏の肥前支配は排除できませんでした。

しかし、周辺国人を滅ぼしたり、従属させることにより力をつけていきました。

元亀3年(1572年)、少弐政興を肥前から追放すると、天正元年(1573年)には西肥前を平定、天正3年(1575年)には東肥前を平定します。

天正4年(1575年)には南肥前に侵攻し、天正5年(1577年)までに大村純忠(おおむら すみただ)を降し、天正6年(1578年)には有馬晴信(ありま はるのぶ 純忠の甥)の松岡城を降して肥前の統一が完成します。

天正8年(1580年)4月には家督を嫡男・政家(まさいえ)に譲り隠居しますが、実権は握り続けます。

さらなる勢力拡大

天正6年、大友宗麟が耳川の戦い島津義久(しまず よしひさ)に大敗すると、隆信は大友氏の混乱に乗じて大友氏の領国を席巻し、大友氏から完全に自立し、それまで対等な関係にあった国衆を服属させ戦国大名化します。

天正8年までに筑前国(ちくぜんのくに 福岡県西部)・筑後国(ちくごのくに 福岡県南部)・肥後国(ひごのくに 熊本県)・豊前国などを勢力下に置くことに成功しています。

しかし、恩人である蒲池氏が島津氏に通謀したとして、蒲池鎮漣(かまち しげなみ)を謀殺し、柳川の鎮漣の一族を皆殺しにします。

さらに天正11年(1583年)には赤星統家(あかぼし むねいえ)が隆信の命に背いた際、人質として預かっていた赤星の幼い息子と娘を処刑しています。

このように隆信は冷酷な一面を見せており、これを恨んだ統家は沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい VS島津氏)では島津氏の味方として龍造寺軍と戦うこととなります。

天正9年(1581年)龍造寺軍は龍造寺政家を大将として肥後に侵攻し、肥後の計略が完了すると帰陣します。

同年8月、島津義弘が北上し、相良氏(さがらし)の水俣城を攻めると、相良氏・阿蘇氏(あそし)・甲斐氏(かいし)らは龍造寺家晴(りゅうぞうじ いえはる)に救援を求めたため、島津軍は八代に退きます。

天正11年(1583年)、家晴は筑前・肥前・筑後並びに肥後の兵を率い、島津も手勢を集め高瀬川(現 菊池川)で対峙しますが、秋月種実(あきづき たねざね)の仲介により高瀬川より東南を島津領、北西を龍造寺領と定め和睦します。

これを聞いた隆信は島津と一戦もせず講和したことに憤ったといいます。

隆信の最期

天正12年(1584年)3月、従属していた有馬晴信が龍造寺氏から離反します。

隆信の縁戚である深江城主・安富純治(やすとみ すみはる)・純泰(すみやす)父子は龍造寺方であった為、晴信は深江城を攻め、島津氏が加勢します。

隆信は深江城を救援し有馬氏を討つ為、軍勢を差し向けますが、有馬攻めは進まず、業を煮やした隆信は自ら大軍を率い、島津・有馬軍との決戦を決意します。

龍造寺軍は2万5千の大軍であり、対して島津・有馬連合軍は1万足らずと圧倒的な兵力差がありましたが、龍造寺軍が大軍の進行が不可能な狭路に誘い込まれ、島津家久(しまず いえひさ 義久の弟)軍と有馬軍の挟み撃ちに遭います。

龍造寺軍は敗北を喫し、大将の隆信は島津家臣・川上忠堅(かわかみ ただかた)に討ち取られます。享年56

法名は泰巌宗龍、法雲院。

鍋島直茂はこの報を聞くと、自害しようとしますが、家臣に説得され撤退していきました。

島津軍に討ち取られた隆信の首は、島津家久によって首実検をされた後、龍造寺家が受け取りを拒否した為、熊本県玉名市の願行寺に葬られたと言います。

現在、隆信の公式の墓所は鍋島氏と同じ佐賀県の高伝寺にありますが、討ち取られた首の行方は諸説あり、「隆信の首塚」と言われるのが長崎や佐賀に散在するそうです。

              龍造寺隆信・鍋島氏の墓がある高伝寺

             鍋島直茂・龍造寺隆信らを祀る松原神社

龍造寺隆信ゆかりの松原神社や高伝寺周辺には古湯温泉という歴史ある温泉があります。

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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コメント

  1. セフィママ より:

    スマイリーさん、記事がんばりましたね(^^)

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