楠木正成の子・正儀、和平派の代表として後亀山天皇の南北朝合一に力を尽くす

今日は何の日?

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10月5日の今日は何の日?

1392年 南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)に三種の神器を譲り、南北朝の合一がなる。

天皇家の皇位を巡る分裂

天皇家は鎌倉時代の後嵯峨天皇(ごさがてんのう)の時、譲位を巡り、持明院統(じみょういんとう)大覚寺統(だいかくじとう)に分裂しました。

持明院統の後深草天皇(ごさがてんのう)と大覚寺統の亀山天皇(かめやまてんのう)は兄弟ですが、次の天皇に亀山天皇の皇子を皇太子としたため、不満を持った後深草天皇は大覚寺統と対立していきます。

この問題を鎌倉幕府が仲介し、これ以降交互に天皇をたてることとなりました(両統迭立 りょうとうていりつ)。

南北朝の成立

しかし、大覚寺統の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)になると、元々中継ぎ役でたてられた天皇だったため、自分の子孫が皇位に就くことを否定され、その不満が鎌倉幕府へと向きます。

そして幕府の討幕運動を起こしますが失敗し、幕府によって廃位され、島流しに遭い、持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)が皇位に就きます。

一度は廃位された後醍醐天皇ですが、流刑地の隠岐の島を脱出すると、挙兵し、足利尊氏(あしかが たかうじ)新田義貞(にった よしさだ)らにより幕府は滅亡させられます。

幕府を倒した後醍醐天皇は、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた全ての人事を無効とし、建武の新政と言われる政治を始めます。

また、自らの子孫を皇位に就けるため、持明院統だけでなく、大覚寺統の嫡流の皇子たちも皇位継承から外します。

しかし、恩賞問題などで多くの武士の支持が得られず、前例を軽視した政治に公家も不満を持ち、足利尊氏が離反したことをきっかけに多くの武士が尊氏に従いました。

後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家(きたばたけ あきいえ)に尊氏の討伐を命じます。

新田軍を負った尊氏軍は京都に入りますが、北畠顕家の活躍により、一度は尊氏を九州へ駆逐することに成功しています。

九州で勢力を立て直した尊氏は、光厳上皇の院宣を掲げて京都を目指し、湊川の戦いで新田義貞・楠木正成(くすのき まさしげ)を敗り、正成が戦死した為、後醍醐天皇は比叡山へ篭ります。

尊氏は後醍醐天皇と和睦を図り、三種の神器を接収して、持明院統の光明天皇(こうみょうてんのう)を京都に擁立し(北朝)幕府を開きます。。

一方、後醍醐天皇は京都を脱出し吉野に逃れ、自身の正当性を主張して南朝を開きます。

                   吉野朝宮跡

南朝勢力の衰微

吉野に南朝を開いた後醍醐天皇ですが、1338年(延元3年)までに名和長年(なわ ながとし)結城親光(ゆうき ちかみつ)千種忠顕(ちぐさ ただあき)の他、北畠顕家や新田義貞までも戦死してしまい、翌年には後醍醐天皇も崩御し北朝が有利となりました。

1348年(正平3年)には楠木正成の子・楠木正行(くすのき まさつら)正時(まさとき)兄弟が四条畷の戦いで高師直(こうの もろなお)に討たれ、吉野行宮が陥落した為、皇位に就いた後村上天皇(ごむらかみてんのう)は賀名生(奈良県五條市)に逃れます。

                  賀名生皇居跡

しかしその後、尊氏が政務を任せていた弟の直義(ただよし)と足利家執事の高師直の間で対立が表面化し、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれる幕府の内紛が起こりました。

政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子となっていた足利直冬(あしかが ただふゆ)も養父に従い九州に逃れ戦います。

また、山名時氏(やまな ときうじ)など守護の一部も南朝に属して戦うことで南朝勢力が息を吹き返しました。

1351年(正平6年)には尊氏が直義派に対抗するために南朝に降伏し、年号を南朝の「正平」に統一する「正平一統」が成立します。

これにより、尊氏は征夷代将軍を解任され、南朝はこれを機に京都へ侵攻し、尊氏の子の足利義詮(あしかが よしあきら)を追い、京都を占領して三種の神器を接収します。

義詮は北朝の年号を復活し、京都を奪回しますが、南朝は撤退する際、光厳・光明両上皇と光厳の皇子で天皇を退位したばかりの崇光上皇(すこうじじょうこう)を賀名生へ連れ去っています。

このため北朝は崇光上皇の弟の後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を神器なして即位させ、尊氏も征夷代将軍に復帰しました。

1354年(正平9年)南朝の中心的人物だった北畠親房(きたばたけ ちかふさ)が死去すると、再び南朝は衰微します。

1358年(正平13年)尊氏が死去すると、新田義貞の三男義宗(よしむね)北畠親房の次男・顕信(あきのぶ)らが再起を試みますが、組織的な蜂起に至らず、逆に北朝側が南朝掃討の攻勢に出て、河内国(かわちのくに 大阪府東部)の赤坂城を落城させます。

1361年(正平16年)には幕府内で失脚した細川清氏(ほそかわ きようじ)が南朝に帰順し、楠木正儀(くすのき まさよし 楠木正成の三男)らと共闘し、一時は京都を占領します。

               和平の為には北朝にも降った楠木正儀

しかし、1ヶ月にも満たず奪回され、劣勢を挽回することはできませんでした。

その頃になると、大内弘世(おおうち ひろよ)や山名時氏といった大名も北朝に帰服し、1367年(正平22年)には和平交渉も北朝に拒絶され、以降は大規模な南朝の攻勢もなくなります。

1368年(正平23年)、南朝で強硬派の長慶天皇(ちょうけいてんのう)が即位すると、和平派の楠木正儀は南朝内で孤立します。

そのため、1369年(正平24年)幼い将軍・足利義満(あしかが よしみつ)を補佐した管領・細川頼之(ほそかわ よりゆき)の説得により南朝の中心人物であった正儀を北朝に帰順させることに成功しました。

南朝は強硬路線を取ってしまったために主要人物を失い、かえって勢力を弱めることとなってしまいました。

九州の情勢

九州では多々良浜の戦いで足利方に敗れた菊池氏などの南朝勢力と、足利方の一色範氏(いっしき のりうじ)や仁木義長(にき よしなが)などの勢力が争っていました。

南朝は勢力を強化するため、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねよししんのう)を征西将軍として九州に派遣し、北朝勢力と攻防を繰り返します。

観応の擾乱が起こると、足利直冬も加わり三勢力が抗争する鼎立状態となりますが、1352年(正平7年)に足利直義が殺害されると直冬は九州を去ります。

1359年(正平14年)の筑後川の戦いでは南朝・北朝合わせて10万人の兵力が戦ったとされています。

この戦いで敗れた北朝方は大宰府に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなりました。

1368年(正平23年)、足利義詮の死をきっかけに九州の南朝勢力は東征の軍を起こしますが、大内氏に阻まれ失敗します。

1372年懐良親王は倭寇(わこう 海賊)の取り締まりを条件に、明朝より「日本国王」の称号を受けますが、室町幕府は今川貞世(いまがわ さだよ)を九州に派遣し大宰府を奪回します。

南北朝合一

南朝が衰微していく一方、足利義満は有力守護大名の勢力を削減していき、中央集権化することでその差が歴然となっていきます。

1382年(弘和2年)には楠木正儀が南朝に帰参し参議となりますが、同年、北朝の山名氏清に敗退してしまします。

また、1383年(弘和3年)には北畠顕能(きたばたけ あきよし)や懐良親王が続けざまに亡くなり、軍事的支柱を失った南朝は、対北朝強硬路線をとっていた長慶天皇が弟で和平派の後亀山天皇に譲位することで合一の機運が高まります。

正儀も数年内に亡くなり、1385年には宗良親王も亡くなったことから南朝の指揮官の地位は正儀の嫡子・楠木正勝(くすのき まさかつ)が継ぎます。

しかし、正勝は1388年(元中5年)平尾合戦で山名氏清に敗北し、1392年(元中9年)には楠木氏の本拠地である千早城も失い、南朝は北朝に抵抗する術をほとんど失いました。

このような中、1392年(元中9年)に足利義満の斡旋により、大覚寺統と持明院統の両統迭立と全国の国衙領を大覚寺統の所有を条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体しました

南北朝を機に、九州北部を制圧していた今川貞世は菊池武朝(きくち たけとも)と和睦し、九州も幕府の支配下となり、その後足利義満が「日本国王」となりました。

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) どうしても自由になりたいと思い、インターネットビジネスに興味を持ち、始めました。 歴史好きなので、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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