源義朝に仕えながらも頼朝には仕えず、石橋山で戦った大庭景親。

今日は何の日?

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8月23日の今日は何の日?

1180年石橋山の戦い。源頼朝(みなもとの よりとも)が大庭景親(おおば かげちか)に敗れる。

源頼朝と言えば、鎌倉幕府を開いた初代将軍ですから有名人ですが、大庭景親って誰

先祖は天皇の子孫?
大庭景親は平安時代末期の相模国の武将です。

大庭氏は大庭御厨(おおばみくりや)という荘園を伊勢神宮に寄進し、その下司職(げすしょく 下級職員)を代々務めていました。

また、大庭氏とは鎌倉氏と言う氏族の庶流になります。

鎌倉氏は桓武平氏の流れを受けていると言われ、相模国鎌倉(さがみのくに 神奈川県)に力を持っていました。

鎌倉景政(かまくら かげまさ)と言う人物が、後三年の役(ごさんねんのえき)で有名な源義家(みなもとの よしいえ)に属して活躍しています。

大庭景親は景政の曾孫にあたります。

源氏から平氏へ鞍替え

景親は源氏の家来であったので、頼朝の父・義朝(よしとも)の従い、保元の乱で、兄・景義(かげよし)と共に敵方の源為朝(みなもとの ためとも)に挑みますが、為朝は弓の使い手として有名であり、景義が為朝の強弓に膝を射抜かれ、歩行困難にされたようです。

その為、弟の景親が大庭氏の頭領になっています。

しかし、平治の乱で源義朝が敗死し源氏が没落すると、その頃力のあった平清盛(たいらの きよもり)に接近し、力を持つようになります。

治承4年(1180年)5月、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)源頼政(みなもとの よりまさ)が打倒平氏の兵を挙げると、京都にいた景親は足利忠綱(あしかが ただつな)らと共に追討にあたり、これを破っています。

当時の伊豆の国守は頼政でしたが、敗死したため新しい国守が平清盛の義弟・平時忠(たいらの ときただ)となり、頼政に近かった北条氏・工藤氏の力が弱まっていくこととなります。

以仁王の挙兵は関東にも及び、当時、伊豆国(いずのくに 静岡県)で流人生活を送っていた頼朝も北条氏らと挙兵する噂が流れていました。

実際に挙兵の準備をしていた頼朝には、景親の兄・景義も加わっていました。

ここで兄弟が分かれる事となります。

8月2日に関東の所領に戻った景親は、佐々木秀義(ささき ひでよし)に頼朝の謀反の事を相談しますが、秀義の息子たちは、すでに頼朝に通じており、直ちに頼朝へ使者を送ります。

このことが頼朝に挙兵を急がせることとなりました。

17日に頼朝は挙兵すると、伊豆の目代(もくだい 国司の代理人 現地の代官)である山木兼隆(やまき かねたか)の屋敷を襲い、殺害することで勝利をおさめます。

石橋山の戦い

                石橋山の古戦場跡

頼朝は目代である山木兼隆は倒しましたが、まだ頼朝の力は弱く、伊豆1国を掌握できる力はありませんでした。

その為、三浦半島の三浦一族の力を頼みにしてますが、遠路の為なかなか集まってきませんでした。

20日に僅かな兵を連れ、土井実平(どい さねひら)の所領がある相模国土井郷(神奈川県湯河原町)まで進出し、23日に300騎をもって石橋山に陣を構えます。

景親は頼朝を討とうと、弟の俣野景久(またの かげひさ)ら平家方の3000騎を集め、石橋山で頼朝と対峙します。

三浦一族が頼朝と合流しようと知った景親は、攻撃を開始します。

その時は大雨で日も暮れていましたが、大庭勢の圧勝となり、頼朝軍は壊滅し、山中に逃げ込みます。

                石橋山

景親は山中を探させましたが、梶原景時(かじわら かげとき)が頼朝の所在を知りながら見逃したため、頼朝は土井実平の手引きで安房国(あわのくに 千葉県)に逃げることに成功します。

因みに梶原景時も鎌倉氏からの流れです。名前に同じ「景」と言う字が入っていますね

この縁で景時は、頼朝に重用されるようになったのは有名な話です。

大庭氏のその後

9月2日に頼朝挙兵の知らせが平清盛のいる福原に知らされますが、追討軍の編成が進まず、その間に頼朝は安房国で再挙します。

房総半島を進軍する間に千葉常胤(ちば つねたね)上総広常(かずさ ひろつね)ら有力豪族が加わり、武蔵国(むさしのくに 東京都、埼玉県、神奈川県の一部)に入る時には2万騎以上の大軍となりました。

その後、関東の武士が頼朝のもとに続々と集まると、数万騎の兵力となり、景親には抵抗する術がなくなっていました。

10月6日には頼朝は抵抗を受けず鎌倉に入ります。

平維盛(たいらの これもり)を総大将とする頼朝追討軍は、遅れに遅れ、13日に駿河国(するがのくに 静岡県)に入りますが、現地の駿河の目代が甲斐源氏に敗れてしまいます。

18日には景親は1000騎で平家軍と合流しようと試みますが、敵方に囲まれており、兵を解き逃げ去ります。

20日に富士川で源氏と対峙していた維盛軍は、戦わず敗走してしまいました。(富士川の戦い)

23日に景親は遂に降伏し、26日には固瀬川(神奈川県藤沢市片瀬)処刑されています。

弟の俣野景久は倶利伽羅峠(くりからとうげ)源義仲(みなもとの よしなか)軍との戦いで討ち死にしています。

一方の兄・景義は御家人として鎌倉幕府に仕え天寿を全うしています。

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) どうしても自由になりたいと思い、インターネットビジネスに興味を持ち、始めました。 歴史好きなので、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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