南朝の英雄は楠木正成・新田義貞だけではない。九州の菊池武光、南朝の勢力拡大に貢献する。

今日は何の日?

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8月6日の今日は何の日?

1359年 筑後川の戦い。南朝方の懐良親王・菊池武光らが北朝方の少弍頼尚と戦い南朝方が勝利する。

筑後川の戦いは南北朝時代に九州で起こった合戦では最大のものです。

延元元年(1336年)、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は8歳の皇子・懐良親王(かねよししんのう)を征西大将軍として九州に派遣し、彼を奉じた菊池武光(きくち たけみつ)は高良山(こうらさん 福岡県久留米市)に城を築き征西府としました。

足利尊氏(あしかが たかうじ)が幕府の内訌であった観応の擾乱(かんのうのじょうらん)を治め、八幡の戦いを制し、さらに正平9年/文和3年(1354年)に南朝の支柱であった北畠親房(きたばたけ ちかふさ)が亡くなると、南朝側で北朝に対抗できる武力勢力は九州の懐良親王と菊池一族だけになっていました。

観応擾乱(1349年ー1352年)
足利直義(あしかが ただよし 尊氏の弟)派と高師直(こうの もろなお 足利家の執事)派の争い。
直義派により高師直・師泰(もろやす)兄弟が殺害されるが、一時は南朝に帰順した直義も後に尊氏により殺される。

 

 

八幡の戦い
尊氏との争いで京都を脱出して鎌倉に入った直義を尊氏は討つことにし、尊氏は南朝と和睦をし直義を討つが、これを好機と見た南朝が和議を破棄する。
尊氏の不在をつき、京都の足利義詮(あしかが よしあきら 尊氏の子)を攻め、南朝が京都を支配するが、義詮ら北朝方は勢力を盛り返し、京都を奪回する。
そして、南朝の後村上天皇(ごむらかみてんのう)の仮御所のある男山八幡を包囲し、陥落させた戦い。

 

 

南朝の主役、懐良親王・菊池武光とは?

懐良親王
元徳元年(1329年)?-弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日)
後醍醐天皇の皇子
南朝の征西大将軍として肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築く。
                   懐良親王

菊池武光
玄応元年(1319年)?-文中2年/応永6年11月16日(1373年12月29日)
肥後国(ひごのくに 今の熊本県)益城郡の出身。
菊池家第12代当主。第12代当主・菊池武時(きくち たけとき)の9男。
父・武時、13代当主で兄の武重(たけしげ)が亡くなると、弟で12男の武士(たけひと)が14代当主となる。
しかし、武士は父や兄と比べると柔弱で、当主としての才覚に乏しかった為、不満を抱いた兄の武光は、隈府城に入り、武士を追放して自らが当主となる。
懐良親王を隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努める。
正平6年/観応2年(1351年)には筑後国(ちくごのくに・福岡県)にに進出して勢力を拡大し、正平8年/文和2年(1353年)に2月には北朝の九州探題・一色範氏(いっしき のりうじ)少弐頼久(しょうに よりひさ)争いに介入し、筑前針摺原にて一色探題軍を撃破する。
同年7月には筑前飯盛山にて再び一色軍を破り、続いて正平9年/文和3年(1354年)からは豊後国(ぶんんごのくに・大分県)肥前国(ひぜんのくに・佐賀・長崎県)の進出して大友氏泰(おおとも うじやす)を降伏させ、一色範氏を長門国(ながとのくに・山口県)に追放し九州における南朝勢力の優勢を確立する。
一色範氏は正平11年/延文元年(1356年)10月10月に九州へ再度侵攻するが、武光は豊前国(ぶぜんのくに・福岡・大分県)でこれを撃破。
ここに至って一色範氏は九州制圧を断念し、京へ帰還する事となる。正平13年/延文3年(1358年)1月には父・範氏に代わって探題となった一色直氏(いっしき なおうじ)がなおも挑んできたが武光はこれも撃退し、同年11月には日向国(ひゅうがのくに・宮崎県)の畠山直顕(はたけやま なおあき)も破り、九州の足利氏勢力をほぼ一掃した。

菊池武光

北朝の大将・少弐頼久とは?

少弐頼久
永仁2年(1294年)-建徳2年/応安4年12月24日(1372年1月30日)
少弐氏第6代当主。
元弘3年、鎌倉幕府討幕運動である元弘の乱が起こると、父・少弐貞経(しょうに さだつね)に従って九州における北条氏勢力であった博多の鎮西探題(ちんぜいたんだい)北条英時(ほうじょう ひでとき)を滅ぼす。
鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政が始まり、親政から離反した足利尊氏が九州へ落ち延びてくると頼尚は尊氏を迎えるために赤間関へ赴くが、その最中に天皇方に属した菊池武敏(きくち たけとし)・阿蘇惟直(あそ これなお)に大宰府(福岡県)を攻められ父・貞経が戦死する。
建武3年(1336年)頼久は足利勢と共に筑前国多々良浜の戦い(福岡市東区)で菊池氏らを撃破し再び京都を目指す尊氏に従い畿内まで従軍する。
頼尚は恩賞として、筑前国・豊前国・肥後国・対馬国などの守護職を与えられる。
足利家で尊氏と弟の直義が対立した観応の擾乱が発生し、正平4年/貞和5年(1349年)に直義の養子・直冬(ただふゆ)が九州へ逃れると頼尚は娘を娶せて直冬を擁立し、九州における足利勢力である九州探題の一色範氏と争うが、直冬が没落したために領地の大半は没収される。
頼尚は今度は南朝と同盟し一色氏と交戦する。

筑後川の戦い

延文4年/正平14年(1359年)7月一色氏のいなくなった南朝側と少弐氏側は筑後川に陣を張り、対決します。
南朝側、懐良親王・菊池武光を中心に約4万人、少弐氏側約6万人で両軍10万人の大決戦でした。
この日の激戦は、南軍の総帥である懐良親王が3ヶ所の深手を負うほどであったが、武光をはじめとした南軍諸将の奮戦もあってこれに勝利します。
少弐勢は総大将・頼尚の子息・少弐直資(しょうに ただすけ)が戦死したのをはじめ、2万以上の死傷者を出し大宰府へ敗走、一方の菊池勢も武光の甥である菊池武明や一族の赤星武貫(あかぼし たけつら)らが戦死し、こちらも多くの死傷者を出したため、これを追撃する余力は無かったといわれています。
この戦いの後に、傷ついた武光が己の太刀についた血糊を小川で洗った事から太刀洗(福岡県三井郡太刀洗町)の故事が生まれたと伝わります。
筑後川での戦勝後、武光は北軍の掃討を推し進め、正平16年/康安6年(1361年)7月には自ら出陣して、ついに古より九州の「首府」であった大宰府の制圧に成功します。
8月には頑強な抵抗を続けていた少弐氏も本拠地の有智山城を放棄して豊後の大友氏の元へ落ち延びると、懐良親王は大宰府に入城し、ここに征西府を移して「懐良親王-菊池武光」による九州支配の体勢を確立しました。
その後も懐良親王と武光率いる征西府の武威は益々高まり、正平16年/康安元年の大宰府入城より11年間は征西府の絶頂期となりました。

               菊池神社

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) どうしても自由になりたいと思い、インターネットビジネスに興味を持ち、始めました。 歴史好きなので、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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コメント

  1. セフィママ より:

    スマイリーさん、面白いです!
    歴史ものは大好きです!

    • スマイリー より:

      セフィママさん
      ありがとうございます。お好きな時代とかも教えて下さいね。

  2. マッキー より:

    ちなみに8月6日は広島の原爆の日でした。
    そして広告はなぜかほうれい線を消すシートが(;^ω^)
    おれほうれい線に興味ない(笑)

    • スマイリー より:

      8月6日の広島原爆の日には祈念した?
      あはは、広告にほうれい線を消すシートって(笑)
      そのうち役に立つかもよ。

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