民にとってはどちらが幸せ?田沼時代VS松平定信時代

今日は何の日?
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7月1日の今日は何の日?

1767年 10代将軍徳川家治が田沼意次を側用人とする。

1787年 江戸幕府老中松平定信が享保の改革を習い、寛政の改革を始める。

 

田沼意次(たぬま おきつぐ)松平定信(まつだいら さだのぶ)、歴史の教科書にも出てくる有名人物で行った政策も違いますが、ある人物が2人に共通しています。

それは、8代将軍だった徳川吉宗(とくがわ よしむね)。

元々、田沼意次の父、意行(おきゆき)は吉宗が治めていた紀州藩の足軽でした。

まだ吉宗が藩主となる前の部屋住み時代に、吉宗の側近に登用され、吉宗が将軍となる時に紀州から引き連れられ、幕臣となって旗本(将軍直属の武士)となります。

意行は勘定方として幕政に関わりますが、意次も9代将軍となる家重(いえしげ 吉宗の嫡男)の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺領600石を継ぎます。

一方の松平定信ですが、吉宗の孫にあたります。

父は吉宗の次男、田安宗武(たやす むねたけ 家重の弟)

定信は白河藩主時代に飢饉対策に成功した実績を買われ、幕府の老中となって11代将軍徳川家斉(とくがわ いえなり)の元で老中首座となりました。

田沼意次の幕閣時代

                田沼意次

延享2年(1745年)家重が将軍に就任すると、本丸に仕えます。

その後、加増され続け、宝暦8年(1758年)には1万石の大名に取り立てられます。

宝暦11年(1761年)に家重が死去した後も子の10代将軍徳川家治(とくがわ いえはる)の信頼は厚く、破竹の勢いで出世します。

明和4年(1767年)には側用人として加増を受け、更に2万石の相良城主となり、明和6年(1769年)には老中格となります。

安永元年(1772年)相良藩5万7000石の大名となりました。

意次はわずか600石の旗本から、5万7000石の大名となり、側用人から老中まで登りつめた初めての人物です。

この頃老中首座にあった松平武元(まつだいら たけちか)らと共に数々の幕政改革を行い、田沼時代と言われる権勢を握り,悪化していた幕府財政を止めるべく、重商主義政策を取ります。

田沼時代の政策

意次は政策として株仲間の結成・銅座などの専売制の実施・鉱山の開発・蝦夷地(北海道)の開発計画・俵物(中国輸出の為のいりこ・ほしあわび・ふかひれなどの海産物)等の専売による外国との貿易拡大・下総国(千葉県)印旛沼の開拓着手などを行います。。

その結果、幕府の財政は改革に向かい景気も良くなりましたが、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、贈収賄が横行します。

都市部は町人の文化が発展しますが、農村部では益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだため荒廃します。

また、印旛沼運河工事の失敗明和の大火浅間山の大噴火などの自然災害が勃発し、農村部で天明の飢饉と呼ばれる食糧難・疫病が生じました

意次は政策を打ち出しますが、失敗して逆に財政を悪化させてしまいます。

その中で、財政悪化にあった諸藩は米の値上がりを借金返済の好機ととらえ、検地によって年貢の取り立てを厳しくしていきます。

それらが元になり都市部での治安の悪化、一揆・打ちこわしによる不満が高まり、商人への権益を図り過ぎたことを理由に田沼批判が集まります。

意次の失脚

蘭学を手厚く保護し、士農工商にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みますが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府官僚の反発を買ってしまいます。

天明4年(1784年)に意次の子で若年寄(わかどしより 江戸時代の役職の一つ)を務めていた田沼意知(たぬま おきとも)が江戸城内で暗殺されたことにより意次の権勢が衰え始めます。

天明6年(1876年)8月25日将軍家治が死去します。

死の直前より、「家治の勘気を被った」としてその周辺より遠ざけられていた意次はこの間に失脚してしまいます。

この動きには反田沼派や一橋家の徳川治済(とくがわ はるなり 徳川吉宗の孫)の策謀があったとされています。

8月27日には老中を辞任させられ、10月5日には家治時代の2万石まで没収されます。

更に大阪にある蔵屋敷の財産没収と江戸屋敷の明け渡しまで求められ、その後蟄居と2度目の減封を受けます。

相良城は打ち壊され城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に行われています。

長男の意知は暗殺されており、他の3人の子は養子に出されていた為、意知の長男の龍助(後の田沼意明 たぬま おきあき)が陸奥1万石でかろうじて大名として家督を継ぐことを許されます。

その2年後の天明8年(1788年)6月24日江戸で死去します。享年70。

代わって登場したのが松平定信です。

                松平定信

一時は将軍候補だった松平定信

定信は宝暦8年12月27日(1759年1月25日)田安宗武の7男として出生します

長男から4男までは早世しており、正室の子の5男が田安家を継ぎますが、病弱で凡庸であった為、幼少期から聡明だった定信が側室の子ではありましたが、田安家の後継者と目されており、一時は将軍候補でもありました。

しかし、当時は田沼意次による政治が行なわれており、田沼政治を「賄賂政治」と批判していたため疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋家当主の徳川治済によって安永3年(1774年)に久松松平家の庶流で陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦(まつだいら さだくに)の養子に出されてしまいます。

一時期は将軍世子とまで言われた定信は、このことにより意次を激しく憎み、後に暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入りを狙って、意次に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話です。

定信の改革(寛政の改革)

天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となり、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍家斉のもとで老中首座・将軍補佐となります。

そして、天明の打ちこわしを機に幕閣から旧田沼系を一掃し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政改革を目指します。

前任者の田沼意次の重商主義政策と役人と商家による縁故中心の利権賄賂政治から、飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への学問吟味政策では一定の成果をあげます。

しかし、老中就任当時から大田南畝(おおた なんぽ 天保期を代表する文人・狂歌師)から「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などど揶揄されるほどで、幕府のみならず様々な方面から批判が続出し僅か6年で老中を失脚します。

また、「海国兵談」を説いた林子平(はやし しへい)を処罰したり、田沼時代の蝦夷地開拓政策を放棄したり、寛政異学の禁、幕府の学問所である昌平坂学問所で正学以外を排除、蘭学を排除するなど、結果として幕府の海外に対する備えを怠らせることにもなりました。

寛政5年7月23日、定信は海防の為に出張中、辞職を命じられ老中首座並びに将軍補佐の職を辞します。

定信引退後の幕府は、定信派の老中がそのまま残り、政策を引き継いだので、定信の政治理念は幕末期まで幕府の基本理念として堅持されました。

その後の定信

老中を失脚した定信は白河藩の藩政に専念します。

白河藩は山間における領地の為、財政は苦しかったが、馬産を奨励するなどして、藩の財政を潤わせています。

民政にも尽力し、白河藩では名君と慕われたそうです。

ところが、寛政の改革のおり、定信が提唱した江戸湾警備が文化7年(1810年)に実施に移されることとなり、定信の白河藩に命じられたため藩財政を圧迫します。

文化9年(1812年)には家督を長男の定永(さだなが)に譲り隠居しますが、なお、藩政の実権は握り続けました。

文政12年(1829年)1月下旬に風邪をひき、2月3日に高熱を発します。

3月21日に神田佐久間町河岸から出火で松平家の屋敷が焼失し、同族の伊予松山藩の上屋敷に避難しますが、手狭の為4月18日には松山藩の三田の中屋敷に移ります。

その屋敷で病床にあった定信は、家臣らと歌会を開き、嫡子の定永と藩政に関して話し合います。

一時期は回復の兆しも見せますが、5月13日に死去します。享年72。

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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