主君を6家も変え戦国時代を生き抜いた真田昌幸。徳川家康にも恐れられる。

今日は何の日?

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6月4日の今日は何の日?

1611年6月4日 真田昌幸死去 享年65

真田昌幸(さなだ まさゆき)は天文16年(1547年)真田幸隆(さなだ ゆきたか)の3男として生まれます。

同母兄に信綱(のぶつな)昌輝(まさてる)がいます。

武田氏時代の昌幸

天文22年(1553年)8月武田家への人質として7歳で甲斐国(山梨県)へ送られ、武田信玄(たけだしんげん)の奥近習衆に加わっています。

その後、信玄の母方大井氏の支族である武藤家の養子となり、武藤喜兵衛(むとう きへい)と名乗っています。

永禄12年(1569年)10月6日に北条氏康(ほうじょう うじやす)・氏政(うじまさ)親子と戦った三増峠(みませとうげ)の戦いでは、先陣の馬場信春(ばば のぶはる)の使い番を勤め、一番槍の高名を挙げたと言います。

武将としての才能を信玄に見抜かれており、信玄に「我が両眼のごときもの」言われるほど信頼されていました。

元亀3年(1572年)10月からの信玄の西上作戦に参陣し、12月の三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)織田信長(おだのぶなが)徳川家康(とくがわ いえやす)の戦いにも参加しています。

元亀4年(1573年)4月信玄が病死すると、後を継いだ勝頼(かつより)に従います。

天正2年(1574年)には父・幸隆が死去しますが、この時には兄・信綱がすでに家督を継いでいました。

しかし、天正3年(1575年)の長篠の戦い(対信長・家康)で兄・信綱・昌輝が戦死したため、昌幸は武藤氏から真田氏に復して家督を相続します。

天正6年(1578年)3月に越後(新潟県)の上杉謙信(うえすぎ けんしん)没後、御舘の乱(おたてのらん)という上杉家の内紛が起こります。

その後乱で勝利した上杉景勝(うえすぎ かげかつ)と勝頼の間で甲越同盟(こうえつどうめい)が結ばれますが、この時の交渉では昌幸は蚊帳の外に置かれていました。

この同盟が成立すると、天正7年(1579年)9月勝頼の命令で北条氏政の所領であった東上野(群馬県)の沼田へ侵攻します。

昌幸は沼田衆を調略によって切り崩し、叔父の矢沢頼綱(やざわ よりつな)に沼田城を攻めさせ、一方で名胡桃城(なぐるみじょう)と小川城を手に入れます。

そしてこれらの城を拠点に沼田城を攻めますが、北条氏邦(ほうじょう うじくに)が援軍に来たため撤兵します。

天正8年(1580年)3月から沼田城攻撃を再開し、5月に沼田城を開城させます。

同年、勝頼の子の信勝(のぶかつ)が元服祝儀の名目で安房守(あわのかみ)の名乗りを許されます。

天正10年(1582年)3月織田・徳川連合軍による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)が開始されると、昌幸は武田勝頼に甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し、岩櫃城(いわびつじょう)へ迎える準備をしますが、勝頼は小山田信茂(おやまだ のぶしげ)の居城である岩殿城(いわどのじょう)へ向かってしまい、その結果信茂の裏切りにあい武田氏は滅びてしまいます。

武田氏滅亡後、昌幸は信長に臣従し、織田氏の重臣・滝川一益(たきがわ かずます)の与力武将となります。

沼田城には一益の一族の益重(ますしげ)が入り、昌幸は次男の信繁(のぶしげ・幸村)を人質に出します。

天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)

昌幸が織田氏に臣従してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が起こり、信長が死亡します。

甲斐・信濃(長野県)の旧武田領はこの事変で騒然たる状態となり、森長可(もり ながよし)毛利秀頼(もうり ひでより)ら信長から旧武田領の統治を委任されていた家臣が相次いで美濃(岐阜県)方面に逃走し、甲斐を任されていた河尻秀隆(かわじり ひでたか)は殺されてしまいます。

こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直(ほうじょう うじなお・氏政の子)らが熾烈な争奪戦を繰り広げます。

昌幸もこの好機を見逃さず、信濃小県郡(ちいさがたぐん)や佐久郡(さくぐん)における旧武田家臣の取り込みを策します。

織田信長の苛烈な仕置のために武田家臣の多くは潜伏していましたが、本能寺の変により彼らは自由の身となります。

しかし主家である武田家は既に滅亡していたため、多くは昌幸の元を訪れ主従関係を結びます。

6月19日、北条氏直が上野に侵攻し、滝川一益を破ると(神流川の戦い・かんながわのたたかい)、一益を諏訪まで送ります。

一益もいなくなり、上野も無主となると、6月21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回します。

また、嫡男の信幸(のぶゆき)を岩櫃城に送って上野方面の守備を固めます。

同時期、越後の上杉景勝も北信濃に進軍し、6月24日に長沼城に入ります。

これに対し、昌幸はまず上杉景勝に臣従しますが、7月9日には北条氏直に降っています

7月12日、北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙しますが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かいます。

この時、松田憲秀(まつだ のりひで)と昌幸を殿(しんがり・軍の最後)に残していきます。

沼田城に戻った昌幸は9月25日、佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃(よだ のぶしげ)を介して徳川家康方となり、突如、北条氏を裏切ります。

昌幸離反の情報は、10月初旬に北条氏に伝わったとみられ、北条氏邦が牽制のため沼田城を攻めますが、成功しませんでした。

これが契機となって、若神子で徳川軍と対陣する北条氏直は10月29日に和睦の途を選択します。

しかし、北条氏との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として、昌幸の領地がある上野国の沼田を譲渡するという条件を出しますが、それに昌幸は反発します。

家康との対立

天正12年(1584年)3月羽柴秀吉(はしば ひでよし)対徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが起こり、家康は主力を率い尾張(おわり・愛知県)へ向かい、昌幸は越後の上杉景勝を牽制するために信濃に残留します。

12月には家康は秀吉と和議を結び尾張から撤兵します。

そして北条氏直から和議の条件の履行を迫られたため、天正13年(1585年)4月、甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求めますが、昌幸は拒否したため、家康は浜松城に引返します。

昌幸は家康との手切れを決断し、徳川軍の侵攻に備えて7月15日に次男の信繁を人質にして再び上杉景勝に従属します。

閏8月、真田領の制圧を狙った徳川家康と北条氏直は鳥居元忠(とりい もとただ)大久保忠世(おおくぼ ただよ)平岩親吉(ひらいわ ちかよし)ら7000の兵で昌幸の居城・上田城を、北条氏邦に沼田城を攻めさせます。

昌幸はわずか2,000の兵力でで徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめています。(第1時上田城合戦)

また、氏直は沼田攻めを手掛けるも、落とせませんでした。

豊臣政権時代

天正13年(1585年)冬、次男の信繁が上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従します。

天正14年(1586年)には昌幸は佐久へ侵攻します。

5月25日には北条氏直に沼田城を攻撃されるが撃退します。

7月には家康が昌幸征伐のために甲府に出陣しますが、8月7日に秀吉の調停を受けて真田攻めを中止し、その代わりに11月4日、秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となります。

天正15年(1585年)3月18日に昌幸は小笠原貞慶(おがさわら さだよし)と共に駿府で家康と会見し、その後上坂して大坂で秀吉と謁見し、名実ともに豊臣家臣となります。

天正17年(1589年)には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され、昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得ます。

この頃、昌幸は在京していましたが、11月には北条氏家臣の猪俣邦憲(いのまた くにのり)が名胡桃城を攻めた為、惣無事令(そうぶじれい)違反とみなされ、これが天正18年(1590年)の小田原征伐の原因となりました。

小田原征伐が始まると、3月上旬・昌幸は上杉景勝・前田利家(まえだ としいえ)らの北陸の豊臣軍と共に北条領の上野に攻め入り、北条家重臣の大道寺政繁(だいどうじ まさしげ)が守る松井田城を攻めます。

そして北条家が降伏すると、家康は関東に移され、関東の周囲には豊臣系大名が配置されて家康の牽制を担い、昌幸は秀吉から旧領を安堵され、同じく家康牽制の一端を担いました。

なお安堵された領地の内、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領から独立します。

文禄元年(1592年)文禄の役(ぶんろくのえき)では肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)に在陣しますが、昌幸は渡海命令を与えられる事の無いまま、家康と共に文禄2年(1593年)8月29日に大坂に帰陣します。

大坂に帰陣した後、渡海しなかった代償として昌幸らには秀吉の隠居城である伏見城の普請役の負担を命じられます。

この軍役や普請の負担の功労により、文禄3年(1594年)11月2日に秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓、信繁に従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられました。

また、同年4月には、昌幸は自称だった安房守に正式に任官されています。

関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)8月18日秀吉が死去すると、五大老筆頭の家康が台頭し、影響力を強めていきます。

慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従っています。

家康の留守中に五奉行のの石田三成(いしだ みつなり)が挙兵し、諸大名に家康弾劾の13ヵ条の書状を送り多数派工作を始め、昌幸は下野国犬伏(栃木県佐野市)で書状を受け取ったと言われています。

この時、昌幸は信幸・信繁と去就を決めるため会議を開き、三成と姻戚にあった関係から次男・信繁と共に西軍に、信幸は正室の小松姫がが本多忠勝の娘である事を理由に東軍に与することとなり、真田家存続のために父子訣別します。

上田城へ引き返した昌幸は、その途上で、信幸の居城・沼田城を奪おうと画策し、沼田の留守を預かっていた小松姫に、「孫の顔が見たい」として開門を請いますが、昌幸の思惑を見抜いた小松姫に丁重に拒絶されます。

そして家康の三男・徳川秀忠(とくがわ ひでただ)が率いる約38,000の部隊が江戸を発して中山道を下り、9月6日には上田城攻略を開始し、昌幸は2,000の兵力で篭城して迎え撃ちます(第2次上田城合戦)。

秀忠はまず、真田信幸と本多忠政(ほんだ ただまさ 忠勝の子)を使者として昌幸に帰順を勧告します。

しかし昌幸はこの交渉で帰順すると思わせぶりな態度を見せながら土壇場になって態度を翻して抗戦の意思を示して秀忠を挑発し、秀忠軍を城攻めに集中させる手をとります。

昌幸は信幸が上田の支城である戸石城に攻めてくると、信幸に功を挙げさせるためと同族の流血を避けるため、同城の守備を担当していた信繁に城を放棄させて上田に撤退させます。

このように昌幸は徹底した籠城策を取り、時には出撃して奇策を用いて秀忠軍を散々に翻弄し、秀忠は城攻めに手を焼いて9月9日に小諸に撤退します。

そこへ8月29日付で中山道制圧の任にあった秀忠軍は家康から上洛を命じられ上田攻略を諦めますが、この時上洛を命じる家康の使者が利根川の増水で到着が遅れ秀忠は関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。

その後、関ヶ原での石田三成敗戦の報が届いてもすぐには降伏せず、海津城主・森忠政(もり ただまさ)の家臣が守る葛尾城(かつらおじょう)に対して2度攻撃を仕掛けています。

しかしながら、もはや西軍の敗北は明らかで同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じました。

配流後

関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下されます。

昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めますが、東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居処分が決まります。

信濃上田の真田領に関しては信幸に与えられ、信幸は沼田27,000石、上田38,000石、加増30,000石の合わせて95,000石を領する大名となり、真田家の存続に尽くしました。

昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発して高野山に向かいます。

昌幸の正室は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに16人の家臣が従います。

高野山での昌幸の配所は1里ほど麓の細川という場所でしたが、間もなく配所は九度山(現・和歌山県九度山町)に代わります。

なお、流人ではあるが昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようです。

昌幸の生活費に関しては国許の信之や和歌山藩主の浅野幸長(あさの ゆきなが)の援助で賄いますが、生活に困窮し、信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出しています。

10年余り続いた流人生活は昌幸の気力を萎えさせ、晩年の昌幸は病気がちで、信之宛の書状では信之の病気平癒の祝言を述べると共に自らも患っている事を伝えています。

そして慶長16年(1611年)6月4日、九度山で病死しました。

 

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スマイリー

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