一族や家臣の権力争いの中で幕府を立て直せなかった北条高時。歴代の執権経験者達も滅びる。

今日は何の日?

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5月22日の今日は何の日?

1333年鎌倉幕府滅亡。新田義貞が鎌倉に攻め入り、北条高時ら一族約800人が自害する。

今日は鎌倉幕府滅亡を北条氏側を中心にみてみます。

遂に鎌倉幕府が滅びました。

新田義貞(にった よしさだ)が挙兵して2週間ほどです。

太平記を読んだ人なら、分かると思いますが、北条高時(ほうじょう たかとき)と言う人物は、政治を顧みず、田楽(でんがく・平安時代中期に成立した日本の伝統芸能)や闘犬(とうけん)に興じた暗愚な執権として描かれてます。

北条高時

嘉元元年12月2日(1304年1月9日)~元弘3年5月22日(1333年7月4日)

北条貞時(ほうじょう さだとき)の3男として生まれる。

北条家嫡流の得宗家(とくそうけ)の出身であり、成人したら執権になるはずの人ですね。

9歳の時に父・貞時が亡くなる際、高時の舅となる安達時顕(あだち ときあき)と内管領(うちかんれい・北条得宗家の執事)である長崎円喜(ながさき えんき)を高時の後見として指名します。

3代の執権を中継ぎとして挟み、正和5年(1316年)に14歳で14代目の執権となります。

この頃には長崎円喜に権力が集中していました。

その為、在任中は蝦夷の反乱や安藤氏の乱正中2年には後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の討幕計画である正中の変が起こり政治は乱れています。

病の為、正中3年(1326年)には24歳で執権職を辞任して、出家しています。

但しその後継を巡り、高時の実子・邦時(くにとき)を推す長崎氏と高時の弟の泰家(やすいえ)を推す安達氏との対立する嘉暦(かりゃく)の騒動が起こります。

邦時成長までの中継ぎ役として、15代執権には金沢貞顕(かなざわ さだあきがなりますが、反対派からの暗殺風聞までたちすぐに辞任してしまい、赤橋守時(あかはし もりとき)が16代執権になることで収拾します。

元弘元年には高時が円喜を誅殺しようととしたとして、高時の側近が処罰される事件が起こります。

このように幕府内で混乱が起こっている間に、元弘元年(1331年)に後醍醐天皇・楠木正成(くすのき まさしげ)らが兵をあげてしまいます。

この事件では後醍醐天皇を隠岐へ島流しにし、その側近も処刑して、新しい天皇(光厳天皇・こうごんてんのう)を立てます。

しかし、元弘3年(1333年)2月、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、再び兵をあげたため、足利尊氏(あしかが たかうじ)らに鎮圧の兵を向けますが、尊氏は裏切ってしまい、5月7日には京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め滅ぼします。

一方、5月18日には新田義貞が鎌倉に攻め入った為、22日に北条氏菩提寺の東勝寺(とうしょうじ)へ入り、そこで北条氏一門や家臣と自刃します。(享年30)

この中には13代執権の北条基時(ほうじょう もととき)や15代執権の貞顕・そして当時権勢を誇っていた長崎円喜・高資(たかすけ)親子も含まれています。

              東勝寺跡

高時の子達のその後

高時には3人の男児がいます。

1人は執権になり損ねた長男の邦時。

鎌倉幕府が滅び、高時が自刃する前に邦時を側室の兄である五代院宗繁(ごだいいん むねしげ)に後を託し、逃そうとしますが、新田軍による残党狩りが行われます。

なんと、宗繁は報奨金に目がくらみ、主人の子で甥である邦時を言いくるめ、別行動をとらせたうえ、責任を放棄したばかりか邦時の所在をを新田方に密告します。

捕らえられた邦時は翌日鎌倉で処刑されてしまいます。享年9

さすがにわずか9歳の子供を出生が高時の子と言うだけで、大の大人が殺してしまう精神が疑われますが、宗繁と言う人物の人間性には吐き気を覚えます。

宗繁の裏切りは人々に不忠と糾弾され、それを聞いた新田義貞も宗繁の処刑を決断しますが、それを知り逃れます。

ただ、その所業を知った人は誰も彼を助けることなく、乞食のようになりはて、餓死したようです。(当然ですね)

因みに時代は違いますが、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)の子に国松丸(くにまつまる)という人物がいます。

この子もわずか8歳で見つけられて処刑されましたが、国松丸を託された乳母の夫の田中六左衛門と言う人物は、死罪を逃れ得たにもかかわらず、自ら殉死を志願して国松丸と共に処刑されてます。(宗繁とはえらい違いです)

2人目は中先代の乱を引き起こした時行。(ときゆき)

なんとか鎌倉を逃れた時行は北条氏が代々守護をしていた信濃国(長野県)へ移り、諏訪頼重(すわ よりしげ)の元で育てられます。

建武3年に成長した時行は、後醍醐天皇に不満を持つ勢力や北条の残党を糾合し兵をあげ、一度は鎌倉を占拠します。

しかし、鎌倉で足利尊氏に敗れ、時行軍は壊滅します。

その後は、後醍醐天皇の南朝に帰参して赦され、尊氏と戦う事となります。

まずは、北畠顕家(きたばたけ あきいえ・南朝の武将・公卿)軍に加わり、顕家が戦死すると今度は新田義貞の息子の義興(よしおき)の加わり執拗に戦い続けます。

これには尊氏も恐怖すら感じたと言います。

しかし、その時行も足利方に捕まり鎌倉で処刑されたと伝わってます。

3人目は北条氏の一門で高時の養子となった治時(はるとき)

治時は楠木正成らを討伐する大将として派遣され出陣しています。

しかし、六波羅探題が滅びた為、討伐軍も自壊し、興福寺に籠り抗戦を続けます。

鎌倉陥落の報を聞くと出家し降伏しますが、建武元年(1334年)7月9日に京都で処刑されました。享年17

 

 

 

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) どうしても自由になりたいと思い、インターネットビジネスに興味を持ち、始めました。 歴史好きなので、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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