水戸学の影響を受けた徳川斉昭。死後の水戸藩は尊皇派と佐幕派とで揺れる。

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1844年 水戸藩主の徳川斉昭が大砲鋳造などの藩政改革を幕府に警戒され、謹慎処分となる。

徳川斉昭(とくがわ なりあき)

                 徳川斉昭

寛政12年3月11日(1800年4月4日)-万延元年8月15日(1860年9月29日)

常陸水戸藩の第9代当主。

第7代当主の徳川治紀(とくがわ はるとし)の三男として水戸藩江戸小石川で生まれています。

幼名は虎三郎・敬三郎で、初めは父・治紀の偏諱(へんき)を受け紀教(としのり)と名乗りますが、藩主就任後は11代将軍・徳川家斉(とくがわ いえなり)の偏諱を受け斉昭と名乗ります。

諡号(しごう・死後の贈り名)は烈公(れっこう)

神号は「押健男国之御楯命」(おしたけおくにのみたてのみこと)・「奈里安紀良之命」(なりあきらのみこと) 神様扱いなんですね。

「水戸黄門」で有名な徳川光圀(とくがわ みつくに)と共に茨城県の偕楽園そばの常盤神社に祭神として祭られています。


偕楽園

 

家督相続まで

治紀には成長した男子が4人いて、長兄の斉脩(なりのぶ)は8代藩主次兄・松平頼恕(まつだいら よりひろ)は高松藩松平家に、弟の松平頼かた(まつだいら よりかた)は宍戸藩松平家に養子に決まっていましたが、斉昭だけは30歳になっても、部屋住みのままでした。

長兄の斉脩が生来体が丈夫でなかった為、控えとして残されたのかもしれません。

斉脩には結婚後10年たっても子女がおらず、継嗣問題が出ていましたが、文政12年(1829年)斉脩が跡継ぎを決めないまま病気となると、藩の上層部によって第11代将軍家斉の20子で斉脩の正室の弟の恒之丞を養子に迎える動きがでます。

しかし、学者や下士層が斉昭を推し、斉昭派40名余りが無断で江戸に上り陳情するなどの騒ぎとなります。

結局、斉脩の死後遺書が見つかり、斉昭が家督を継ぎました。

天保2年には有栖川宮織人親王(ありすがわのみや おりひとしんのう)の娘・登美宮吉子(とみのみや よしこ)と結婚します。

藩政改革

斉昭は藩校・弘道館を設立し、上層部の門閥派を押さえ、下士層から広く人材を登用します。

その中には、水戸の両田(りょうでん)と言われる、戸田忠太夫・藤田東湖水戸の三田(さんでん)とも称された武田耕雲斎が加わります。

他にも、安島信立(あじま のぶたつ)会沢正志斎(あざわ せいしさい)青山拙斎(あおやま せっさい)など斉昭擁立に加わった比較的軽輩の藩士を用い藩政改革を実施します。

「追鳥狩」という大規模な軍事訓練を実施したり、農村救済の為、稗倉(ひえぐら 穀物蔵の事)を設置します。

さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進しています。

蝦夷地の開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言して、その影響は幕府だけでなく、全国に及びます。

また、宗教面で寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料とし、廃寺や道端の地蔵の撤去を行ったり、村ごとに神社を設置することを義務付け、従来は僧侶が行っていた宗門人別改長(しゅうもんにんべつあらためちょう)などの民衆管理を神官に移行します。

このような仏教抑圧と神道重視の政策は、明治初期の神仏分離・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく仏教寺院・仏像・経巻を破棄し、僧尼などの出家者や寺院が受けていた特権を廃すること)の先駆けとなります。

この政策は、藩政を牛耳る家老たちと、藩政改革を進めようとする中級・下級の藩士たちの間で激しい派閥抗争が繰り広げられた中、藩を一つにまとめる必要もあって行われました。

しかし、弘化元年(1844年)に鉄砲斉射の事件や前年の仏教弾圧事件などを罪に問われ、幕府の命令により嫡男の慶篤(よしあつ)に譲った上で、強制隠居と謹慎処分となります。(1度目)

その後門閥派が実権を握り専横を行いますが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって弘化3年(1846年)には謹慎を解除され、嘉永2年(1849年)には藩政関与が許されます。

幕政への関与

嘉永6年(1853年)6月のぺりーの浦賀来航に際し、老中首座・安倍正弘(あべまさひろ)の要請により海防参与として幕政に関わりますが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論(じょういろん・鎖国を行おうとする排外思想)を主張します。

このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上し、江戸の石川島で建造した洋式軍艦「旭日丸」を幕府に献上します。

安政2年(1855年)に軍制改革参与に任じられますが、同年の安政の大地震でブレーンの藤田東湖や戸田忠太夫らを失ってしまいます。

安政4年(1857年)に阿部正弘が死去し堀田正弘が名実ともに老中首座となると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する井伊直弼(いいなおすけ)と対立します。

さらに第13代将軍・徳川家定(とくがわ いえさだ)の継嗣問題でも徳川慶福(とくがわ よしとみ)を推して南紀派を形成する井伊直弼らに対し、実子の一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)を擁し一橋派を形成して直弼と争っています。

しかしこの政争で斉昭は敗れ、安政5年(1858年)直弼が大老となり、日米修好通商条約を独断で調印し、さらに慶福(家茂)を第14代将軍とします。

このため、安政5年(1857年)6月に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、越前藩主・松平慶永(まつだいら よしなが)尾張藩主・徳川慶勝(とくがわ よしかつ)一橋慶喜らと江戸城に無断登城の上で井伊直弼を詰問した為、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除されます。

孝明天皇による戊午の密勅(ぼごのみっちょく)が水戸藩に下されたことに井伊直弼が激怒し、安政6年(1859年)には、水戸での永蟄居を命じられることになり、事実上政治生命が絶たれます。(安政の大獄)

万永元年(1860年)8月15日、蟄居処分が解けないまま水戸で急逝しました。享年61。

壮年の頃から狭心症の症状が見られたことから、死因は心筋梗塞と推定されています。

斉昭の人物像


斉昭の書

幼少期の頃から水戸学の影響を受けたため、開国には猛反対していたが、西洋の物品に対しては大いに興味を示したといわれています。

幕末期に人材の少なかった徳川家では唯一のカリスマ性と行動力を持ち合わせた人物であり、その死は幕府にとって痛手となりました。斉昭の死後には、水戸藩では内紛が起こり、彼が見出した人材はことごとく自滅することとなります。

水戸家は毎年幕府から1万両の援助金を受けていました。だが斉昭は「祖公以来、35万石で暮らすことが本意であり、倹約するのはこの石高で暮らすためである。以後は奢侈を固く禁止し節約を心がけて拝領した石高で暮らすべきである。その事始めとして、1万両は幕府に返上し、持高に応じた忠勤に励むよう。諸役人はこの趣旨に沿って生計をたてよ」と述べたとのことです。

水戸家を相続して間もない頃、家臣らは先代藩主の兄である斉脩が食べていたものと同じ食事を用意します。それを見た斉昭は「余はこれまで日陰者であったが、兄が亡くなってはからずも水戸家を継いだ。御三家の格式は非常に重いので表向きのことは変更できないだろうが、内向きのことである食事などには金などかけることはない」と述べ、翌日から部屋住みの頃の食事に変えさせています。

斉昭は単に艶福家(えんぷくか・もて男)であっただけでなく、女色に淫すること甚だしく、先代藩主の正室の奥女中にまで手を出したと言われています。

しかし、多くの女性達に対するセクハラまがいの発言が多かったと指摘されており、加えて、大奥の浪費を嫌っており、大奥と密接な関係を持っていた仏教寺院にも否定的でした。

このため、大奥の女性達に忌み嫌われており、息子である慶喜の将軍継承争いにも影響したとされています。

なお、斉昭は生涯に22男15女の37人の子供をもうけますが、その多くが各地の藩主になったり、藩主に嫁いだりしています。

面白いのは男子達の幼名。長男の鶴千代麿は別として、次男は二郎麿、三男は三郎麿・・・と21男まで数字でつけられてます。22男までかな。15代将軍となった慶喜も七郎麿ですし。今では考えられない程、子供の名前に個性がないですね。(笑)

 

 

 

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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