勝海舟とともに江戸を救った幕臣 山岡鉄舟

今日は何の日?

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3月9日にの今日は何の日?は

1868年3月9日 山岡鉄舟が西郷隆盛と駿府城で会見。

江戸の無血開城の功労者は勝海舟だけじゃないんです。

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山岡鉄舟

天保7年6月10日(1936年7月23日)~明治21年(1888年)7月19日

幕末~明治の幕臣。幕末三舟(勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟)の一人。

剣や禅・書の達人としても有名。

               山岡鉄舟

山岡は小野高福の4男として誕生しますが、母の先祖が塚原卜伝という戦国時代の剣豪です。

この影響もあってか、幼少時から剣術や槍術を学び、才能を示してました。

山岡静山に忍心流槍術を学びますが、静山が亡くなると静山の実弟・高橋泥舟に望まれ、静山の妹の英子と結婚。山岡家の婿養子となります。

安政4年(1857年)には清川八郎ら尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成します。

文久2年(1862年)に江戸幕府によって新選組の前身である「浪士組」が結成されると、その取締役に就任します。

文久3年(1863年)には将軍・徳川家茂のお供で上洛しますが、清河の動きを警戒した幕府により、江戸に呼び戻され、清河が暗殺された後は謹慎処分を受けます。

この頃から剣の道を一層追求し、また禅の修行を開始します。

慶応4年(1868年)新たに設立された精鋭隊の歩兵頭格となり、江戸の無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち駿府(静岡県)で西郷と面会します。します。

西郷は身長が180㎝近くあり、体重も100㎏ほどあったようですが、一方の鉄舟も身長188㎝・体重が105㎏あって、2人の巨漢が対峙していたら迫力があったでしょうね。

                西郷隆盛

この会見に先立つ2月11日の江戸城重臣会議で、徳川慶喜は恭順の意思を示しており、勝海舟に全権をゆだね、上野寛永寺で謹慎していました。

勝はこの状況を西郷に伝える為、髙橋泥舟を使者にしようとしたのですが、髙橋は慶喜警護の為場所を離れられず、鉄舟に白羽の矢が立ちます。

この時、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友に刀を借りて官軍の陣営にむかったそうです。

駿府で西郷に会った鉄舟は、勝海舟の手紙を渡し、将軍・慶喜の意向を伝え、朝廷に取り計らうよう依頼します。

その際、西郷から出された条件があり、それは
一、江戸城を明け渡すこと
一、城中の兵を向島に移すこと
一、兵器を全て差し出すこと
一、軍艦を全て引き渡すこと
一、将軍・慶喜を備前藩に預けること

の5つでした。

このうち最後の条件は断固拒み、これを朝廷の命令と凄んだ西郷に対しても、逆に「もしあなた(西郷)が自分の立場ならどうされるか」と反論し、納得した西郷は将軍・慶喜の身の安全を保証します。

これにより、江戸の無血開城への道が開かれました。江戸の恩人ですね。

            西郷と鉄舟の会見の地

そして3月13日・14日の勝と西郷の会見にも立ち会います。

明治維新後は徳川家達(徳川家16代当主)に従い、徳川家の領地となった駿府に向かいます。

6月には静岡藩の藩政補翼となり、幕臣の救済事業である牧ノ原台地の開墾責任者に茶の生産を助言します。静岡で茶の生産が有名なのもこの人のお蔭?

明治4年(1871年)廃藩置県により明治政府に出仕し、静岡県権大参事、茨城県参事・伊万里県権令を歴任します。

明治5年(1872年)には西郷の依頼により、宮中に出仕し、10年間と言う約束で明治天皇の侍従を務めました。

宮内大丞や宮内少輔を歴任し、明治20年(1887年)5月24日、その功績によって子爵に叙されます。

明治16年(1883年)維新に殉じた人たちの菩提を弔う為、東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立します。

明治18年(1885年)一刀正伝無刀流と言う流派を開き開祖となります。

明治21年(1888年)7月15日胃がんの為亡くなります。
皇居に向かって、結跏趺坐(けっかふざ)という体勢での絶命でした。享年53

7月22日の葬儀では、豪雨にもかかわらず、5000人にも上る会葬者が全生庵に集まりました。

また、殉死の恐れがある門人が警察に保護されたり、殉死を止められる門人もいたそうです。

                 全生庵の山岡鉄舟の墓

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鉄舟エピソード

侍従時代、深酒をして相撲を取ろうとかかってきた明治天皇に諫言したり、明治6年(1873年)の皇居仮宮殿が焼失した時に、自宅からいち早く駆け付けるなど剛直な人物でした。

西郷隆盛には「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛されています。

鉄舟は木村屋のアンパンが好きで毎日食べていたそうです。木村屋の看板は鉄舟によって書かれました。

静岡藩時代には清水の次郎長と親交があり、咸臨丸で亡くなった幕臣を次郎長が弔う為に「壮士の墓」と書いて与えました。

明治2年(1869年)明治天皇が京都に行幸する際、天皇から手土産の相談を受け、それを山本海苔店の2代目に相談したところ味付け海苔が創案されました。

人から頼まれれば断らずに書いたという鉄舟の書が各地で見られます。一説には生涯に100万枚書いたとも言われています。


山岡鉄舟の書

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) どうしても自由になりたいと思い、インターネットビジネスに興味を持ち、始めました。 歴史好きなので、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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