明治維新功労者の悲惨な最期。江藤新平・島義勇(佐賀の乱)

今日は何の日?

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今日の何の日?は

1874年 江藤新平ら反乱軍が佐賀城の佐賀県庁に籠る佐賀県権令・岩村高俊の部隊と交戦。政府軍は敗走(佐賀の乱)

佐賀の乱 (1874年2月1日~3月1日)
江藤新平・島義勇らをリーダーとした佐賀で起こった不平士族の反乱の一つ。 最初の大規模内乱。

「佐賀の乱」と言うと江藤新平だけが歴史の教科書でも出てましたが、他にもいました、島義勇(しま よしたけ)。誰?

島義勇 
文政5年9月12日(1822年10月26日)-明治7年(1874年)4月13日
幕末の佐賀藩士。札幌の都市開発に関わり、「北海道開発のと呼ばれた人。
「佐賀の7賢人」の一人でもある。初代の秋田権令(県知事)を務める。
江藤新平とともに刑死。

               島義勇

佐賀の七賢人
幕末から明治時代にかけて活躍した佐賀出身の7人の総称。
鍋島直正・佐野常民・島義勇・副島種臣・大木喬任・江藤新平・大隈重信

凄いメンバーです。

一方の首謀者の江藤新平は

江藤新平
天保5年2月9日(1834年3月18日)-明治7年(1874年)4月13日
幕末の佐賀藩士。参議・初の司法卿(大臣)
「維新の十傑」「佐賀の七賢人」の一人にも挙げられている。

              江藤新平

維新の十傑
討幕・明治維新で活躍した志士のうち幕臣以外の10人。
西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀(以上薩摩藩)、大村益次郎・木戸孝允・前原一誠・広沢真臣(以上長州藩)、江藤新平(肥前藩)、横井小楠(肥後藩)、岩倉具視(公家)


実は不仲だった、江藤新平と島義勇

佐賀の乱って1つに纏められてますが、実は江藤新平を要する征韓党と島義勇を擁する憂国党の2つのグループで混成されてました。

グループをつくるきっかけとなった征韓論は武力によって挑戦を開国させようと言う主張で西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣によって主張されていました。

しかし、明治6年の政変と言われる政変で江藤・西郷・板垣らが敗れ、政府を去ってしまいます。

政府を去った江藤は征韓党と言うグループをつくり、朝鮮半島へ進出する際は自分達不平士族が先鋒を務めると主張します。

この主張には、若年の下級士族が中心となります。やはり若い者は血の気が多い。

一方の憂国党すが、封建制度の復帰と言う主張をしており、佐賀藩でも位の高く、壮年の者が多く、両者は異なる考えを持っていました。

これは、長い間ずっと武士をやってきて支配階級にあったので、それが亡くなった時への反発があったのでしょう。

どちらにしても当時の明治政府には不平士族の不満が蔓延しており、この2つの党派も危険分子として政府にマークされていました。

そして、中央で力があった江藤らは地元に戻ることを禁じられていたのですが、江藤はそれを振り切って帰郷します。

2月1日には憂国党の士族が、官金の預かり業者・小野組に押しかけてしまい、店員が逃亡したことで乱の一歩と看做されてしまいました。

これに対して、この頃の政府の中心人物は大久保利通ですが、2月5日には佐賀への追討令を受けています。

一方、島義勇ですが、三条実美の依頼で暴発するのを止める為に佐賀に戻ろうとしたようです。

しかし戻る途中、新佐賀権令・岩村隆俊の佐賀士族に対する傲岸不遜な態度と岩村が兵を率い佐賀に入る予定という事を知り、佐賀を守るために決起しようと決意したようです。

島と岩村は因縁があり、島が北海道で開拓使についていた時に揉めていたのが岩村通俊で隆俊の兄にあたります。しかも、前佐賀権令は岩村通俊だったとの事。この兄弟には何かと振り回されてますね。

その為、主義や国家観も違う江藤と島は手を結び、国家に抵抗する事になります。

ただ、手を結んだとは言え、本拠地もバラバラで協力して戦ってはいなかったようです。

他にも佐賀には中立党というグループもありましたが、こちらは政府に味方し、佐賀の殿様の鍋島氏も反乱の参加には消極的だったので、一ヶ月という短い期間で制圧されました。

江藤は事前に西郷とも会談し、決起を求めた事もありましたが、西郷は承諾しませんでした。

6年後の明治10年には、西郷を首領とする日本最後の内戦、西南戦争が勃発しますが、この時点で西郷が決起していたらまた歴史は違う方向に進んでいたでしょうか。

2月22日には反乱軍は佐賀城の佐賀県庁を襲い、政府軍に大損害を与えています。

所々では善戦した反乱軍ですが、寒津川・田手川の戦いで敗退した江藤は征韓党を解散し、鹿児島の西郷に助力を求めに戦線離脱しています。

この事は、まだ戦っていた憂国党を怒らせてしまいます。

江藤は西郷が決起しなかった為、今度は土佐に向かいますが、自分の手配写真が回っていて、高知県で捕まります。

この写真制度は江藤自身が確立した制度でしたが、皮肉なことにその適用第1号となってしまいました。

島も敗戦濃厚となると、弟らに無理やり脱出させられ、鹿児島に向かって、島津久光の助力を受けようとしますが、断られ捕まってしまいます。

暗黒裁判~その後
捕まった江藤と島は佐賀に送られ裁判にかけられます。
4月8日に始まった尋問ですが、釈明の機会も与えられないまま4月13日には江藤・島ら13名に死刑判決が下りました。
そして、翌日には死刑執行されています。
江藤新平は司法卿を務めた人物ですから、司法省時代の部下に尋問されましたが、尋問された部下を恫喝したらその人はその後尋問に参加することはなかったとの事です。
この乱は江藤・島と言った明治維新の功労者が起こしたので、当時から功に対し、刑が重すぎるという不満がありました。
佐賀では乱後も不満がくすぶっていましたが、結局佐賀で乱が起こることはありませんでした。
大正8年には特赦令が出て、江藤・島など佐賀の乱の首謀者が赦免され、叙任までされます。(今さらですが)
そして翌年には佐賀に慰霊碑が建立されます。

佐賀の乱の慰霊碑

 

 

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) どうしても自由になりたいと思い、インターネットビジネスに興味を持ち、始めました。 歴史好きなので、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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