やっぱり名君?尊王の人徳川慶喜 今日は何の日?

今日は何の日?

こんばんは スマイリーです。

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今晩、所属している塾でのミーティングがあって、テンションが上がったので今日も書きます。

1968年2月12日(新暦3月5日) 徳川慶喜が江戸城を出て上野寛永寺に移り謹慎。

 

徳川慶喜
天保8年9月29日(1837年10月28日)-大正2年(1913年)11月22日

江戸幕府最後の代15代将軍 在位:慶応2年12月5日(1867年1月10日)-慶応3年12月9日(1868年1月3日)

大政奉還や江戸城の無血開城を行い、明治維新後には貴族院議員となる。

 

 

生い立ち

水戸藩9代藩主、徳川斉昭の7男として江戸の水戸藩邸で生まれます。母は吉子女王(皇族)。幼名は松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)。

斉昭には22人の息子と19人の女子がいて、正室の子としては3男でした。

長男が水戸家を継ぎ、次男は早くになくなっていたので、斉昭は幼少の頃から優秀だった七郎麻呂を養子に出さず、手元に置いておきたかったようで、その頃に父親の名から一文字頂き、松平昭致と名乗っています。

一橋家相続

しかし、12代将軍の徳川家慶から御三卿の一つ・一橋家を継ぐように言われ、家慶の一字を頂き、一橋慶喜と名乗ることになります。

御三卿 徳川家から分立した田安家・一橋家・清水家の3家

徳川家慶からも次の将軍候補として考えられていた慶喜ですが、この時は老中・阿部正弘の諫言で断念しています。

阿部正弘と言えば、後に徳川斉昭や薩摩藩主・島津斉彬とともに慶喜を推して、14代の将軍継嗣問題で井伊直弼らと対立していますから、もし早く慶喜が13代将軍となってたら歴史が全然変わってたでしょうね。

阿部正弘や島津斉彬が亡くなると、慶喜を推す一橋派は勢いを無くし、結局、井伊直弼の推す徳川慶福が14代将軍となりました。

ただ、本人はあまり将軍になりたくなかったのか、父・斉昭に手紙を送っています。

安政6年(1859年)、井伊直弼は日米修好通商条約の調印問題で、対立する斉昭を謹慎に追い込み、慶喜も謹慎させられています。(安政の大獄)

しかし、安政7年(1860年)の桜田門外の変で、井伊直弼が暗殺されると、慶喜は謹慎を解かれます。

役職就任

文久2年(1862年)には島津久光(島津斉彬の弟)が兵を率いて江戸に上り、幕府の人事介入を行い、慶喜を将軍後見職、越前藩主・松平春嶽を政治総裁職と言う地位に就けます。

慶喜と春嶽は文久の改革と言う政治改革を行い、京都守護職を設置したり、参勤交代の緩和を行いました。

文久3年、攘夷(外国人を排斥すること)の件で朝廷と交渉しますが、朝廷に攘夷を実行するよう命じられ、横浜港を鎖交する方針を確定します。

これには、春嶽や久光が反対して慶喜と対立し、参与会議と言う有力大名で構成された会議が崩壊してしまします。

この件後、慶喜は将軍後継職を辞任し、禁裏御守衛総督と言う地位に就きます。

これは禁裏(京都御所)を警護する役職で、天皇を守護する人だとのアピールに感じます。

以後は、自分の兄弟である藩主達と提携し、朝廷の意向に従って横浜港鎖交を推進しますが、天狗党の乱に対する対処で幕府内でもめ、結局、横浜港鎖交はとん挫します。

天狗党の乱
元治元年(1864年)筑波山で挙兵した、水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)による騒乱。

また、同年7月に起こった禁門の変では、御所守備軍を自ら指揮して戦います。

禁門の変
京都で起こった長州対幕府軍の争い。尊王攘夷派の長州が負けたことにより、以後長州は朝敵となり、長州征伐につながっていく。

この変を契機に、慶喜も尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、慶喜を支持していた水戸藩の尊王攘夷派に対しても切り捨て、以後は会津藩や桑名藩と提携していきます。

第一次長州征伐が終わると、欧米各国が要求していた安政の5ヵ国条約の勅許をえるために奔走し、朝廷と交渉し漸く勅許を得ます。

しかし、京都に近い兵庫の開港は認められませんでした。

慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では勅命を得ますが、薩摩藩が出兵を拒否したこともあり、幕府軍は敗れます。

しかもその最中に将軍家茂が亡くなった為、休戦の詔勅を朝廷から引き出し、休戦協定の締結に成功します。

14代将軍家茂の後継として、将軍に押されますが、固辞し続け、徳川家は相続しますが、将軍は拒み続けます。

12月5日に将軍宣下を受け、ようやく将軍に就任します。

慶喜は会津藩や桑名藩の支持のもと、朝廷と結びつき、対立関係にあった改革派幕閣と連携し慶応の改革を推進します。

しかし、薩摩と長州が武力討幕路線に進むことを予期した慶喜は、慶応3年(1867年)10月14日政権を天皇に返上して翌日には勅許されます。(大政奉還ですね)

大政奉還後の政治体制は諸侯会議によって定められるはずでしたが、12月、薩摩藩らが政変を起こし、朝廷を制圧して、慶喜を排除した新政府樹立を宣言します。

この会議によって、慶喜の内大臣辞職と幕府領の納地が決定されました。

慶喜は衝突を避けるため会津や桑名藩兵と大阪城に退去し、また自己の正当性を諸外国に主張します。

しかし、翌年薩摩藩の挑発にのってしまった慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に進撃し武力衝突します。

1月3日の鳥羽伏見の戦いで形勢が不利となると、一部の者(側室や愛妾・老中・会津藩主・桑名藩主)だけを連れ開陽丸で江戸に退去し、その為大勢の兵が置き去りにされました。

            大阪を脱出する徳川慶喜

そして、慶喜を朝敵とする追討令が正式に出て、新政府軍が東征します。

この時慶喜は、抗戦派を抑えて朝廷へ恭順するよう主張します。

勝海舟に事態の収拾を一任して、2月12日には自ら上野の寛永寺大慈院に謹慎します。

また、徳川家の家督は養子である田安亀之助(徳川家達)に譲ります。
因みに子供は10男12女がいたんですが。(早世も含む)

江戸城攻撃の前に行われた勝と西郷隆盛の交渉により、4月11日に江戸城は明け渡され、慶喜は寛永寺を出て水戸に向かいます。

水戸でも引き続き謹慎した後、7月に徳川家が駿府(今の静岡県)に移されると、慶喜も駿府の宝台院で謹慎し、これにより徳川家の政権は幕を閉じます

余生

              晩年の徳川慶喜
明治2年(1869年)9月には謹慎が解かれ、そのまま静岡に居住します。

静岡時代は政治的な野心は持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲などの趣味に没頭する生活を送っています。多趣味ですね。

対して、ほとんどの旧幕臣には会わず、静岡に共に住んだ困窮する幕臣の生活には無関心だったとの事です。(家臣だった渋沢栄一には会ってたそうですが。)

明治30年(1897年)11月に東京の巣鴨に移り住み、翌年には、有栖川宮威仁親王の仲介により明治天皇に拝謁しています。

明治34年(1901年)には文京区に住み、ここが終焉の地となります。

明治35年(1902年)公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家をたて貴族院議員となり、35年ぶりに政治に携わります。

明治43年(1912年)12月8日、7男の慶久に家督を譲り、貴族院議員を辞して隠居し、再び趣味に没頭する生活を送ります。

大正2年(1913年)11月22日感冒の為亡くなっています。享年77歳。

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) どうしても自由になりたいと思い、インターネットビジネスに興味を持ち、始めました。 歴史好きなので、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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