源義経の奇襲は事実?鵯越の逆落とし。今日は一ノ谷の合戦の日。

今日は何の日?

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書こうとしてた「今日は何の日?」が4日も遅れてしまいました。

まぁ、小さなことは気にしない。気にしない。

1184年2月7日 一ノ谷の合戦で源義経らが「鵯越の奇習」で平氏軍に圧勝

一ノ谷の戦い

摂津の国(今の兵庫県)の福原及び須磨で行われた源氏対平氏の戦い。

指揮官、源氏側が源範頼・源義経、平氏側が平知盛・平忠度。

源範頼 久安6年(1150年)-建久4年8月17日(1193年9月14日)源義朝の6男

源義経 平治元年(1159年)-文治5年4月30日(1189年6月15日)源義朝の9男 幼名牛若丸・遮那王

平知盛 仁平2年(1152年)ー寿永4年3月24日(1185年4月25日) 平清盛の4男

平忠度 天養元年(1144年)ー天元元年2月7日(1184年3月20日)
平忠盛の6男で平清盛の異母弟

平宗盛 久安3年(1147年)-元暦2年6月21日(1185年7月19日)平清盛の3男 正室の子としては長男

 

合戦の経緯

寿永2年(1183年)5月に行われた源義仲との倶利伽羅峠の戦いで大敗した平氏は、京都を追われ、九州の大宰府まで逃れていました。

1度は京都を制圧した義仲でしたが、後白河法皇との対立があったり、京都での乱暴狼藉で評判が落ち、平氏との水島の戦いで負けた後、同じ源氏の源頼朝が派遣した軍(源範頼・義経)に負けて滅んでしまいました。

そうやって源氏同士で争っている間に、平氏が力を盛り返し、平清盛が都にしようとした福原まで進出してきました。

この時の平氏は瀬戸内海を制圧し、中国・九州・四国を支配しており、数万の軍勢が集まっており、京都を奪回しようとしてました。

一方の源氏軍でも、源範頼が56,000騎、義経も10,000騎を率い、摂津の国へ向かってました。 

寿永3年(1184年)2月4日、義経軍は前哨戦となる三草山の戦いで、平資盛・有盛らを破り、追撃していました。

2月6日には清盛の法要を行っていた平氏に後白河法皇の使者が訪れ、和平を勧告し、源氏と交戦しないよう命じたらしいです。(実際にはもう奇襲されてますが。)

進撃を続ける義経軍は、鵯越(ひよどりごえ)で軍を2分し、大半を別の大将に任せ、自らは70騎で山中を進みます。

「平家物語」によると、この時に家来の武蔵坊弁慶が老人の漁師を道案内として見つけてきて、人馬が通れない難所だと説明されます。

鹿が通る道だと知った義経は、「鹿が通るなら、馬も通るだろう」と言い、老人に道案内をさせますが、老齢の為、息子を推薦し、その息子を家来として道案内させたという事です。

そして一ノ谷の裏手にある断崖絶壁に出ます。

2月7日朝、平忠度が守る塩屋口と言う所で合戦が始まります。

また、夢野口、生田口と言う所でも激戦が始まりますが、守る平氏軍も大軍の上、厳重に守られていたので、源氏軍でも攻めあぐねて突破ができませんでした。

この時断崖にいた義経は、崖から2頭の馬を落とし、1頭が無事立ち上がったのを見て、自らも駆け下りました。

そして難所をを超えて一ノ谷の平氏の陣を攻撃します。

全くの想定外の攻撃に平氏軍は大混乱となり、海の方へ逃げ出します。

これが有名な鵯越の逆落としのシーンです。

        鵯越えの逆落としのシーン

但し、この頃の馬は小さく、140センチぐらいだったとの事。

人も150センチくらいだったみたいで、歴史ドラマで見るようなかっこいいものではなかったでしょうね。小さい人が小さい馬に乗って姿を現代人が想像すると
ちょっと笑えます。

しかし、このシーン他の記録になく、「平家物語」の虚構と言う説もあり、子供の頃義経に憧れていた僕にとってはショックです。

一ノ谷の合戦は3方の陸から攻められていて、海に逃げるしかなかったみたいですが、沖合で船にいた総大将・平宗盛は敗北を悟り、四国の屋島へ逃げます。

平氏のの棟梁であり、敗軍の将なので、この頃に記録にはいい描かれ方しないかもしれないけど、この人は好きになれませんね。一族を見捨てて逃げたような
愚鈍な2代目のイメージしか思い浮かばないです。

平敦盛の最後

       平敦盛を呼びとめる熊谷直実

この戦いで、平氏一族の多くが死んで悲劇が起きていますが、その中でも特に有名なのが敦盛の死ではないでしょうか。

敦盛も17歳で亡くなっています。

嘉応元年(1169年)-元暦元年2月7日
平清盛の弟・経盛の末子。笛の名手であったようで、死の際にも笛を携帯していたようですね。この人を描いた能の「敦盛」・幸若舞の「敦盛」の題材となっています。


熊谷直実
と言う武将が敵を探していた際、馬に乗って海に入ろうとしていた敦盛を見つけます。

当然、いい敵と思い呼び止めて一騎打ちをしますが、強い直実には敵わず、組み伏せられてしまいます。

その時見た顔立ちが、薄化粧をした美少年だったので、自分の息子とダブった直実は哀れに思い、敦盛を助けようとします。

しかし、運悪く味方の兵見られてしまい、助けられず討取ったらしいです。そのことがあった為か戦後、直実は出家してしまい、高野山で敦盛を弔ったとの事。

戦とは言え、何の恨みもない若者を殺したことには罪の意識を感じたのでしょうか。

一ノ谷の合戦後

この戦で致命的な大打撃を受けた平氏ですが、まだ安徳天皇と三種の神器を押さえており、後白河法皇が捕虜になっていた平重衡と交換するよう提案したものの宗盛は拒否したそうです。

平重衡は異母弟とはいえ、一応弟ですが、ここにも宗盛の人間性が出てますね。

三種の神器を奪回できなかった源氏は、この後も屋島の戦い・壇ノ浦の戦いへと
移っていきます。

 

 

 

 

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) どうしても自由になりたいと思い、インターネットビジネスに興味を持ち、始めました。 歴史好きなので、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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