平重衡 ~寺院を敵に回し、短い一生を終えた平氏の公達~

今日は何の日?
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今日は何の日?

1185年(文治元年)6月23日は 平重衡の命日です。

平重衡とは

                    平重衡

平重衡(たいらの しげひら)
は1157年(保元2年)に平清盛(たいらの きよもり)の五男として誕生しています。

母は平時子(たいらの ときこ)異母兄に重盛(しげもり)基盛(もともり)、同母兄に宗盛(もねもり)知盛(とももり)がいます。

重衡は継室の子なのに、なぜか重衡だけは「盛」と言う字が名前に入っていません。

兄達にはついているので不思議ですね。

烏帽子親が誰だったのでしょう。

因みに重衡以下の弟たちにも「盛」の名は入っていません。

弟たちは時子の子ではないので、差がついてるのでしょうが、重衡は清盛の子という事で順調に出世しています。

わずか6歳で従五位の下と言う官位から始まり、7歳で尾張守(おわりのかみ 愛知県西部の国司)に任命されています。

23歳には左近衛権中将という高い役職についています。

しかし、平氏の権勢が高まるにつれ、後白河法皇との関係が悪化していき、清盛はクーデターを起こすと、後白河法皇の院政を停止させています。

1180年(治承4年)5月、以仁王(もちひとおう 後白河法皇の子)が平氏に対して挙兵すると、重衡は甥の維盛(これもり)と共に大将軍として出陣し、以仁王、源頼政(みなもとの よりまさ)を討伐します。

この討伐は早期に鎮圧されますが、8月には源頼朝(みなもとの よりとも)伊豆国(いずのくに 静岡県伊豆半島)で挙兵し、10月には富士川の戦いで平氏を破り、関東を制圧します。

さらに、後白河院と密接な関係の園城寺や興福寺も、公然と平氏に反発するようになります。

恨みをかった南都焼き討ち

そこで、清盛は重衡に命じ、寺社勢力の征伐に向かわせます。

12月11日に園城寺を焼き討ちすると、12月25日には南都(奈良)に向かいます。

興福寺僧兵はこれを迎え撃ちますが、重衡の軍4万騎はこれを突破し南都へ迫ります。

28日に南都を攻めると、興福寺、東大寺を焼き、多くの僧侶が焼死しました。

この時に東大寺の大仏も焼け落ち、これを実行した重衡は南都の衆徒から恨まれてしまいます

翌1181年(治承5年)閏2月4日に清盛が病死し、閏2月23日には重衡の舅の藤原邦綱(ふじわらの くにつな)が死去すると、重衡の後ろ盾がなくなり、一時的に甥の清宗(きよむね 宗盛の嫡男)に位階を抜かれます。

同年3月に大将軍として墨俣の戦いに赴いた時は、源行家(みなもとの ゆきいえ 頼朝の叔父)義円(ぎえん 頼朝の異母弟)軍を破り、源氏の侵攻を食い止めています。

ところが1182年(寿永元年)9月、重衡の家来が従弟の平経正(たいらの つねまさ)の家来と衝突を起こしてしまいます。

ここは経正の父・平経盛(たいらの つねもり)が重衡の兄・宗盛に謝罪し収拾しますが、一門の結束にひびが入る危惧が生まれました。

平氏の都落ち

1183年(寿永2年)5月、源義仲(みなもとの よしなか)倶利伽羅峠の戦いで平維盛軍を破ると、平氏は京都防衛の放棄を余儀なくされます。

重衡も妻の輔子(すけこ)を伴い、都落ちします。

しかし、重衡は同年10月、備中国(びっちゅうのくに 岡山県西部)水島の戦い足利義清(あしかが よしきよ)を、11月には室山の戦いで源行家を破るなど、源義仲に打撃を与える活躍をみせます。

さらに1184年(寿永3年)正月に源氏同士の対立が起き、義仲が鎌倉の頼朝から派遣された源範頼(みなもとの のりより)・義経(よしつね)軍に敗れ滅びると、この間に平氏は摂津国(せっつのくに 大阪府北西部・兵庫県南東部)の福原にまで進出し勢力を回復させています。

だが、平氏は同年2月の一ノ谷の戦いで範頼・義経軍に大敗し、重衡も馬を射られ捕らえられてしまいます。

重衡は京都へ護送され、牢獄に入れられました。

この時、後白河法皇は平氏の総帥・平宗盛に三種の神器と重衡を交換する交渉を行いますが、これは宗盛に拒否されました。(宗盛は弟を見捨てましたね)

同年3月に重衡は梶原景時(かじわら かげとき)により鎌倉に護送され、頼朝と引見します。

その後、重衡は狩野宗茂(かのう むねしげ)に預けられますが、重衡の器量に感心した頼朝は厚遇し、妻の北条政子(ほうじょう まさこ)などは重衡をもてなすため自分の侍女である千手の前(せんじゅのまえ)を妾に差し出しています。

千手の前は重衡を思慕するようになり、重衡がの死から3年後には24歳の若さで亡くなってしまいます。

1185年(元暦2年)3月、平氏は壇ノ浦で滅亡すると平氏の女たちも入水しますが、重衡の妻・輔子は捕まり捕虜となりました。

重衡の最期

南都焼き討ちで恨まれていた重衡は、南都衆徒の強い要求により鎌倉から南都に引き渡されることとなり、同年6月9日に鎌倉を出立します。

護送された重衡は、輔子が住む日野の近くを通りかかった時、「せめて一目でも妻に会いたい」と願い許され、輔子が駆けつけ別れの対面をします。

その時、形見にと重衡の額にかかった髪を噛み切って渡す話が残されています。

6月22日に東大寺の使者に引き渡された重衡は、翌23日、木津川で斬首され、奈良の般若寺の門前に晒し首となりました。享年29

斬首前に法然(ほうねん)と面会した重衡は、仏教に帰依する儀式を受けています。

妻の輔子は打ち捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、日野に墓を建てました。
その墓が京都市伏見区に残っています。
なお、重衡が焼き討ちした東大寺盧舎那仏像は、重源(ちょうげん)の布施活動により再建されますが、戦国時代になって松永久秀(まつなが ひさひで)によって再び焼失し、現代のものは江戸時代に再建されています。

                再建された東大寺盧舎那仏像

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スマイリー

初めまして、スマイリーです。 現在は関東に住んでますが、九州から流れてきました。(笑) 好きなのは平安時代~戦国時代。出来ることなら、過去の世界を見てみたい。 自由になり、様々な土地に行って、歴史を感じたいです。 宜しくお願いします。
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